定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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1966年の春

あしたのジョーのあの時代とは

あしたのジョーが少年マガジン誌上で連載が始まったのは1968年1月1日号からだ。それから5年間続く。この時代こそ戦後の大きな転換点になる。特に団塊の世代にとってはきわめて重要な時代となる。と私は考えている。あの時代の輪郭を極私的に描いてみよう。まずは、あの時代が始まる前のことだ。

1966年(昭和41年)、田舎の高校を卒業して私は金沢の大学に入った。2年前に東京オリンピックが行われ、徐々に日本国内の輸送交通網が整備されていた。白黒テレビがかなり普及し、全国で同じ情報が共有されるようになっていた。といっても全体としてはまだ貧しさがあちこちにあった。
金沢はさすがに北都にふさわしく犀川、浅野川という2つの大きな川のほとりに30万ほどの人が住んでいた。ちなみに江戸時代、東京、大阪、名古屋、京都に次いで、金沢は5番目に大きな町だったということを先日知って金沢のもつポテンシャルに驚いた。
金沢城を中心に町が広がっていた。大学はその城内にあったので何処へ行くにも便利であった。大手門を降りたすぐ傍にNHK金沢放送局があった。そこから50メートル先の中町の仕舞屋に私は下宿した。代々金沢藩の御典医だった家で間口は狭いが奥行きの深い大きな家だった。女系一家でおばあさんと未亡人とその息子がいた。下宿人は大学生が私を含めて二人、短大生が一人、そして社会人がいた。彼は私と同年の新米警察官だった。

4月、入学してまもなく下宿の先輩とおばあさんと3人で兼六園に花見に行った。北国の春は華やかだ。長い雪の暮らしを終えた喜びがあふれ出る。おおぜいの人が出ており夜店も並んで賑やかであった。広坂通りまで出たときだ。
遠くで騒ぎが起きていた。石浦神社の交差点あたりが騒がしい。かすかにスピーカの声が聞こえる。なんだろうと私が首をかしげると、先輩は学生デモさと答えた。これがあの60年安保のときに勇名を轟かしたデモかと珍しく眺めた。

人びとはそんなデモにも目をくれず、兼六園の大小の桜の樹木に見入っていた。今思い出しても清親の絵のような幻燈イメージの花見だった。与謝野晶子ではないが今宵会う人皆美しき、と18歳の私は思った。その2年後にこのデモの数百倍数千倍大きな闘争の炎が全国の大学で燃え盛るとは夢にも思ってはいない。

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by yamato-y | 2007-02-22 16:51 | あしたのジョーの、あの時代 | Comments(0)

友達百人できるかな

友達百人できるかな

イラストレーターの渡辺和博氏が死んだ、56歳だった。3年前に肝臓がんが発見されて入退院を繰り返していたというが、それでも56歳は若い、早い。

この死について嵐山光三郎氏が日経新聞で追悼の文章を発表している。友情溢れる文章だ。友の死は自分の一部の死であって、年をとって友人のほとんどが死ぬと自分も死ぬのだと語って哀切な思いを吐露している。心をうつ。その嵐山の追悼文の中に気になる言葉があった。

《としをとると、もう新しい友人はいらない。それでも40代の頃は100人ぐらいの友がいた。50代になると70人になり、還暦をすぎると50人ぐらいだ。》

わが身を振り返り、友達を数えてみた。とても現在50人はいない。私はまだ還暦になっていないのに。嵐山氏は友達が多いなあ。たしかに現役ばりばりの40代には友達というかいっしょに酒を飲んだり議論をしたりする仲間は100人はいた。だが、定年となって一線から退くと急速に友の数は減った。昼飯だって一人で食うことが多くなった。今の友達を数えると30人余ぐらいだと思う。余と書いたのは私の見栄だ。

いかに、私の交友関係は仕事を通して出来ていたかが分かる。仕事が減れば友も減るのだ。いわゆる部下もいなくなり、いっしょに飲み歩く友も大きく減った。還暦を過ぎても50人の友がいる嵐山氏が羨ましい。

一方、負け惜しみではないが、友達は多くないほうがいいと思っていたりもする。だって、年をとってくるとそれほど大勢と付き合いたいとはだんだん思わなくなる。その友にいちいち気を使うのが煩わしくなる。私の職場の老人たちは昼頃になると、内線電話をかけあって食事の時間を待ち合わせることに必死だ。ほとんど、このことに一日の全エネルギーを使っているのではないかと思われるほど電話をこまめにかけてアポイントをとりまくる。よくまあ、毎日同じ顔ぶれで飽きないものだと思うが、おそらく各自は独りになるのが怖いのだろう。そのことを私は否定しないが、つるんで他人の悪口を語るとなると話は別だ。さっさと老人は職場から去ったほうがいいと、憎まれ口の一つや二つをききたくなる。

子どもが幼稚園の年長になった頃、よく歌っていた歌を思い出す。

♪いちねんせいに なったら いちねんせいに なったら
ともだちひゃくにん できるかな
ひゃくにんで たべたいな ふじさんのうえで おにぎりを
ぱっくん ぱっくん ぱっくんと

小学校にあがれば、ともだちが出来るだろうかと歌った童謡「いちねんせいになったら」だ。作詞者は、あの まど みちおだ。この歌を聴いていた20年前は、友などたいした存在ではないと思っていた・・・・・。だが、訃報が舞い込むたび襲うこの哀しみは何なのだろう。

今朝、出社途中で沈丁花の香りを嗅いだ。今年の春は早そうだ。


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by yamato-y | 2007-02-21 21:58 | 魂のこと | Comments(1)

ペリカン文書

オフレコの研究


何度見てもこの映画は面白い。アラン・パルカという監督はこれ以外の作品を、私は知らないのだが実にうまい演出を見せてくれる。

物語――ワシントンD.C.で2人の最高裁判事が暗殺された。なぜ殺されたか不明だった。ニューオーリンズにある大学の法学部学生ダービー・ショウ(ジュリア・ロバーツ)は、二人の判事に共通する何かが無いかどうか図書館にこもって調査をする。すると意外なからくりが仮説として浮かび上がった。あまりにも荒唐無稽に思えた彼女は、単なるリポートとして主任教授(彼女の恋人でもある)に提出する。かつて行政官であった教授は昔の仲間である政府筋に見せたことから、事態は急変してゆくのだ。「ペリカン文書」と名づけられたそのレポートはついに大統領補佐官まで渡ってゆく。
そしてある日、教授は爆死しダービー自身も何者かから追われることとなる。そして、ワシントン・ヘラルドの敏腕記者グレイ・グランサム(デンゼル・ワシントン)に彼女は助けを求める。
そして2人してこの仮説のウラを取ろうと関係者にあたったり証拠を集めたりするうちに何者かによって命をねらわれることになる

大統領がからむ陰謀を、一人の法律を学ぶ女子大生が推理し立てた仮説が真実を衝いていた。そこから次々に不可解な事件が発生するという着想が素晴らしい。これはむろん原作者の力だ。ブラウン・ペリカンはニューオーリンズのあるルイジアナ州の「州鳥」で、絶滅が危惧される鳥だ。この生息地を開発しようとする大資本の陰謀。ミシシッピ州生まれの作家John Grisham(ジョン・グリシャム)の土地鑑が生きている。ここから起こる暗殺者の手を逃れてゆく経緯が実に映画的で、監督の手腕が大きい。見終わった後スカーっとする。疾走感がここちよい。

私の好きな「ミステリー映画」3本のうちの一本がこの「ペリカン文書」だ。
あとは「ミュージックボックス」と「ファーゴ」。「ファーゴ」はミステリーというより犯罪映画(クライムストーリー)かもしれない。むしろ「薔薇の名前」のほうがミステリーにふさわしいかも。

キャスティングもいい。主人公のダービー・ショーを演じるジュリア・ロバーツ。先日見た「ノッティングヒルの恋人」でも感情移入できるうまい芝居をするなと感心したが、この作品では健気で行動的な女性を演じて実にはまっている。彼女を助ける新聞記者のデンゼル・ワシントンも知的でいい。そのほか政府高官や暗殺者らも憎たらしく怖いところがいい。まさにエンターテインメントとはこういう作品を言うのだろう。

さて、このペリカン文書と呼ばれるリポートは石油発掘計画を情報公開法にのっとって取得した資料から、学生が読み解いていったのだが、この法律の効力というものをなんとなく実感できた。日本でもこれほどの重大な案件を、一般の民間人が手に入れることはできるのだろうか。興味深い。

新聞記者のデンゼル・ワシントンのやりとりで「オフレコ」が重大な意味をもつように描かれていた。このオフレコというものがどれほど信義として保証されるのか、私は現在の日本の実態を知りたいと思う。というのは、これは取材の秘密に属することで面と向かって教えてくれるものでないので、他の人はどうしているかほとんど知らないからだ。

映画の中の話で当たり前のことだが納得したことがあった。それは「オフレコ」の証言者が死亡したときは、オフレコを解除できるということだ。すべてがそのケースに当てはまらないかもしれないが、私には意味深いことと思われた。
この「オフレコ」や「取材源の秘匿」というのはジャーナリストには重大なことだがなかなか正式の議題にのぼることはない。取材のことで裁判になったとき争われる重大なポイントであるにも関わらず、だ。

 ときどき、こういう映画を見たくなる。藤沢周平を読みたくなるのと同じだ。他に面白い映画があったら教えてもらいたい。

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by yamato-y | 2007-02-21 11:41 | ブロギニストのDJ | Comments(0)

あしたのジョーのラストシーン

真っ白に燃え尽きた日



本日、「あしたのジョーの、あの時代」の2回目の収録。いよいよ原作者のひとりちばてつやさんが登場した。迎えいれたのは司会の夏目房之介さんと作家の夢枕獏さん。二人とも「あしたのジョー」の大ファンである。50代のおじさんは今日はほとんど少年の目でちばさんを見つめている。

この名作は高森朝雄の作でちばてつやの画である。当時、「巨人の星」でヒットを飛ばしていた梶原一騎が「高森朝雄」とペンネームを変えて原作を手がけた。この高森朝雄というペンネームは、梶原の本名・高森朝樹に由来している。
その後、梶原はさまざまな伝説を残すが、この連載が始まる頃は格上のちばに対してあの梶原でも遠慮していた。原作を直されることを激しく嫌う梶原だったが、ちばだけはそれを認めた。その理由は、「手塚治虫とちばてつやは別格だ」ということだったのだ。
物語の冒頭は梶原案ではいきなりボクシングシーンだったが、ちばはこれを大きく変えた。貧しい下町から始めたのだ。

そして最終回のシーンにもまた伝説が残っている。梶原が最初に考えた最終回は、「ホセ・メンドーサに判定で敗れたジョーに、段平が『お前は試合では負けたが、ケンカには勝ったんだ』と労いの言葉をかける。ラストシーン、白木邸で静かに余生を送るジョーと、それを見守る葉子の姿」というものだった。だが、その原稿を手渡されたちばはこれに反発し、有名な「真っ白に燃え尽きた」ラストシーンとなる。


このシーンをめぐってファンの間では意見が分かれる。ある者はジョーは死んだといい、ある者はいやジョーは生きている、と2つの相反する見解が生まれた。これまでも、夏目房之介さんも、ジョーの身体が次のページ方向を向いており、リングの線も同じように途切れずに向かっていることから明日があることを意味していると解説していた。つまり夏目さんは生存派である。
その疑問をちばさんに本日向けると、「時によってジョーの最後は死んでいたり生きていたりするのです。ところが最近は自分が年をとったせいか、生きていると言う面をとらえることが多くなったなあ」と懐かしそうに語る。その理由として、ジョーはやさしく微笑んでいるよと指摘する。さらにこの物語を熱く支持した団塊世代へちばさんはエールを贈った。あのときの読者の多くが定年ということで、リングを降りる時期が来ているが、ジョー同様死なないでほしい、まだまだ闘ってほしい、と感動的なメッセージをちばさんは贈ってくれたのだ。

 この収録を終えた後、ちばさんを真ん中にして夏目さん夢枕さんの記念撮影。みんな興奮して、本日のことは早速ブログに書こうとせっせとケータイで撮影。おそらく、ちば、夏目、夢枕の3氏のブログはきっとこの話題のはずだ。

最後に、私はジョーの大きなパネルに、ちばさんのサインをお願いした。畳2畳ほどの大きいパネルだ。これを終わってオフィスに運んでもらった。ちばてつやと書かれたサインがまぶしい。それにしても、このラストシーンは最高だ。



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by yamato-y | 2007-02-20 18:05 | あしたのジョーの、あの時代 | Comments(0)

旅に出ること

旅に出ること

仕事柄、旅はよくした。40代には週に一度は出かけていた。大半は広島を中心とする中国地方であったが、時には東京、福岡、ストックホルム、へと足を伸ばした。

いつも疲れていた。肩がこり脚がはっていた。それでも旅に出れば気分が一新されるので、厭わずに旅に出た。若かったので無理が出来たのであろう。そのツケは47歳のときに脳出血というかたちで払うことになるが、旅に出ることは今も好きだ。昨年も最低月に一度は旅をしていた。

 ある月刊誌の企画書を目にして驚いた。たいていの人はあまり旅をしていないのだ。
その月刊誌の読者層は団塊とあってもろ私と同世代だ。その企画書は読者の志向や嗜好をアンケートで分析していた。
まず、読みたいコンテンツのベストは。1位政治、2位経済、とあって3位に旅とある。
過去1年以内の国内旅行回数が興味深い。
1回-19・1%、2回-24・7%、3回-18・7%、4回―8・6%、5回以上―15・5%、行っていない―13・6%。

この雑誌の男女比は70・4%:29・6%。男が圧倒的に多い。専業主婦は少ないと思われるからいわゆる仕事をしている人が大半と想定される。その人たちがプライベートであれ仕事であれ年に1,2回しか旅をしない人が43・8%もいるのだ。行かない人をいれるとおよそ6割になる。驚いた。

石川県で教師をしている友が3年に一度上京してくる。教研集会があるからだ。そういうことがないと東京へ行くことなどないと苦笑していたのを思い出す。

高度成長時代、全国から若者が東京へ吸い寄せられた。あれから30年、定年をむかえてその「若者」は老いて東京に留まっている。地方に帰って暮らすことは望まないにしろせめて旅でふるさとへ帰りたいとは思うだろう。だが給料は下がり年金も減らさればそうもいかない。

旅が不自由になるというのは、私には窒息する思いにつながる。なんとか移動しつづけたい。ノマードでありたい。犀星が言うように「ふるさとは遠きにありて思うもの」だが、異郷にあるわびしさを束の間追い払うことができるのは、旅だけだから。
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by yamato-y | 2007-02-19 11:47 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

吉屋信子と俳句

吉屋信子と俳句

吉屋信子という作家は星菫趣味の少女小説作家という認識しかもっていなかった。
ところが、彼女の一つの句を目にしてその認識を変えた。というか、彼女の句もいいが俳句の好みが私にはよかった。その決め手になった句とは
 初暦知らぬ月日は美しく
虚子や汀女にも褒められ自分でも好きだと、吉屋は書いている。ところがこの句を詠んだ直後に母を失い、この句の思い出もつらいものになった。そして、再び詠んだ句。
 初暦母の逝く日は知らざりき
気持ちは分るがやや理屈に走っていて、私は好きでない。やはり前の初暦がいい。

吉屋のエッセーには他の俳人の句、特に作家の句をよく紹介している。
大磯に住んでいた高田保が死んだとき、友人でもある久米正雄が詠んだ句。
 春の雪人ごとならず消えてゆく
三汀という俳号をもつ久米の句はさすがである。もう一つ。
 春の夜の喪服着たまま寝そべりし
何か小津安二郎の世界のようだ。

今やその名が忘れられている俳人富田木歩を、吉屋はゆかりの地を歩いて懇切に紹介している。彼は乳児のときかかった病で歩行が困難であった。就学の機会も奪われ27歳の若さで死んでいる。号の木歩とは彼が使用した松葉杖を意味していると、吉屋は深い共感をこめて記している。その「墨堤に消ゆ」は実に感動的なエッセーだ。吉屋が紹介している富田の句の数々。

 遠火事に物売り通ふ静かな
 暮れぎはの家並かたむく雪しづく
 木犀匂ふ闇に立ちつくすかな
 ゆく年やわれにもひとり女弟子
吉屋が好きだという句は――
 簀(す)の外路照り白む心太(ところてん)

母を失ったときに吉屋の心をつかんだ石田波郷の句がいい。
 春夕べ襖に手をかけ母来給ふ

最後に、吉屋信子の句を2つ記す。
 打ち水の町となりけり今年はや
 よらでゆく島に手を振る日短か


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by yamato-y | 2007-02-18 22:58 | 賢者の面影 | Comments(0)

あの時代

あの時代



昨日、護国寺にある講談社の大ホールで「あしたのジョーの、あの時代」のロケ収録をした。

会場は、37年前に「力石徹の告別式」が行われた所縁の場所である。ここに当時と同じくリングを設営し、ジョーと力石の大きなパネルを飾りこんで、トークの舞台とした。

司会は団塊よりちょっと下の夏目房之介さん。広い意味でのベビーブーマーだ。ゲストは宮崎学さん、残間江梨子さん、猪瀬直樹さん、である。朝7時から準備が始まり午後5時過ぎ、無事収録を終えた。詳細は3月24日放送のETV特集「あしたのジョーの、あの時代」をご覧いただきたい。印象に残ったことを1つ2つ書いておこう。

突破者、宮崎学さんは実に魅力的な人物だった。1968年当時、早稲田大自治会の活動家としていわゆる全共闘とは対峙する関係にあったのだが、心情はほぼ同じであったようだ。当時の時代の気分というものを明快に語ってくれた。70年への戦いは政治闘争ではない、もしそうであるなら結果を得ることが目的化するはずだが、そうではなかったと言い切ったことが心に残る。

「あしたのジョー」が少年マガジンで連載された68~73年という時代は、70年安保を政治課題とした新左翼の時代にあたる。いわゆる全共闘が時代の前面に踊り出た時代である。このヘルメットと角棒の風景はいつも男中心で語られてきた。今回、残間さんは団塊世代の女の立場というものを鋭く指摘してくれた。

当時、女子の進学といえばほとんどが短大を目指した。残間さんもその一人で20歳で就職することになるのだが、当時女子は25歳が「定年」であった。在勤年数はわずか5年しかない。アナウンサー就職の面接で「25になったらどうしますか」と聞かれて残間さんは「その年になっても会社が残しておきたいと思われるように頑張ります」と答えたら、試験に落ちた。戦後20年以上経っていても女性の社会進出は困難なのであった。戦後民主主義教育で男女は平等と習ってきておきながら、社会に出る鳥羽口で拒否されたのだ。

あの当時、女はいらないと社会から締め出されたことが団塊世代女子の“傷”になっていると残間さんは言う。今少子化晩婚化が問題になっているが、実はその人らの母親は、女子に自由にさせてやりたいという思いがあるからだ、という残間さんの指摘は心に残った。

講談社は戦災にも焼け残り戦前の古い建物のままである。内部は相当改築されたが、今回会場となった講談社大ホールは昔のままの佇まいを残していた。37年前にもここに500人のファンが集い、力石の死を悼んだのだ。ここに立っていると当時の子供や若者の咆哮が聞こえてくる。「力石を殺したのは誰だ!」

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by yamato-y | 2007-02-18 15:47 | あしたのジョーの、あの時代 | Comments(0)

2月の雨 窓うつ嵐に

2月の雨 窓うつ嵐に
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窓をうつ雨の音に目が覚めた。雨が降っている。2月の冷たい雨が降っている。
いつもなら嫌な雨と思うが、今年はそうならない。

2月に入って10日ほど、雨がまったく降らなかったので乾燥していた。一昨日から足の裏や甲にひび割れが数箇所走るようになった。大きいのは2センチほどの創傷になっていて、歩くのが辛い。慌てて油やクリームをすりこむが簡単には直らずうんざりしていたところへ、この雨だ。

目が覚めてから1時間ほど布団の中で雨音を聴いていた。屋根をうつ音がぽつぽつと響く。時折風が吹いて雨音が消える。止むとまた雨音の連続になる。その繰り返し。

外は冷たい雨だが寝床の中は暖かく気持ちがいい。小学唱歌「旅愁」の一節を思う。
♪窓うつ嵐に 夢も破れ わびしき思いに 一人悩む
 恋しや ふるさと 懐かし父母 夢路に帰るは里の家よ

日があかるくなるにつれ、雨が小止みになってきた。どこかでカラスが鳴いている。

正午になりニュースを見ると、この冷たい雨の中、東京マラソンが行われ、市民ランナー3万人が参加したと報じている。今日は気温があまりあがらず、夜半になって雨があがると天気予報士が語っている。
これから大磯図書館へ本の返却に出かける。雨に濡れそぼったもみじ山は実に美しい。楽しみだ。

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by yamato-y | 2007-02-18 12:33 | 登羊亭日乗 | Comments(0)

今朝も自己嫌悪

今朝も自己嫌悪

昨夜は鍼をうってもらって体が軽くなり、のだぴんで酒を飲んだらテンションがいっきにあがった。よせばいいのに、さらにゴールデン街に出撃した。

新宿の元青線地帯。小さな店が百軒以上並ぶ、新宿ゴールデン街。迷路のような路地を抜けて、馴染みの店「とんぼ」へ辿り着く。店を開けたばかりとあって客は一人だけ。ワインを頼むとおでんと煮こごりが出た。うまい。真空管式オーディオにスイッチが入って流れてきたのは、ディック・ミネ。「私の青空」だった。♪夕暮れに 一人見る 私の青空、というあの曲だ。

なんの話からそうなったか、隣の客と70年代の「新日本文学」の話となった。六十半ばに見えたがよくよく話すとどうやら同年輩のようだ。彼も東中野にあった新日文の文学学校に通ったことがあって、当時チューターを花田清輝がしていたと懐かしそうに語る。「彼はハンサムでねえ」とマッカリの入った杯を飲み干す。

そこへ先輩のTさんが登場。まだ素面のようでジンを注文。私の隣に座る。ここで私のおしゃべりが止まらなくなってしまった。Tさんの顔を見るとついあまえてくだらない駄洒落、下ネタに私は突入してしまう。それを、井伏鱒二風の温顔でTさんは受け止めてくださるのだ。

Tさんは伝説のディレクターだ。この人が制作した「井伏鱒二・荻窪風土記」は今も語り草になるほどの名作だ。なにせこの文豪に半年にわたり密着したのだから。このドキュメンタリーでとんでもない場面が飛び出す。酒席で開高健が井伏に文章が書けないとこぼす場面だ。どうやって書いたらいいか最近迷ってしまうとカメラの前で開高が告白する。井伏に教えてほしいと懇願するのだ。すると井伏大人はさらりと「原稿用紙にとにかく何でもいいから書けばいいのだ。例えば、いろはにほへとでも」と答える。まるで芝居のようなシークエンスが5分近く続く。どうやってその場に居合わせ、撮影することができたのだろうか。ドキュメンタリーの大事な要件に「関係性」があるが、まさにそれを示す絶妙の場面だ。

もともとそういう大人の気質をもってはいたが、井伏と付き合いますますTさんは大人(たいじんである)の風格が際立つようになった。私が少々からんだとて相手にもしない。まるで開高をあしらう井伏だ。
というと言い過ぎか。まるで私が開高健を気取っているようだから。
とにかく、井伏の「サヨナラダケガ人生ダ」の例の詩集にある、もう一つの詩の一節と同じような状態に私はなってしまった。「ケンチコイシヤ・・・アサガヤアタリデ オオザケノンダ」

どうやって帰ったか覚えていない。ねぐらまで帰って来ると、隣のドアの前で中年が立っていてノブをがたがたやっている。インターフォンで「もう、ここにはあなたは入れません、どこかへ行ってください」と妻と思しき女性の声がする。そのうち、男はドアをどんどんたたき始めた。私は慌てて部屋にはいり、耳を澄ますと、そのうちドアが開いて男女の罵声が飛び交う。呆れてキッチンに行きまたチューハイを飲む。

そして、目が覚め昨夜を思い返して、この記事を書いている。少しずつ思い出すたびにだんだん自分が嫌になってくる。

今日はロケがある。音羽の講談社のホールで夏目房之介さん司会「あしたのジョー」論。

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by yamato-y | 2007-02-17 08:52 | 登羊亭日乗 | Comments(1)

新宿の田舎の居酒屋

のだぴん

新宿東口前にあるのだぴんを知っているだろうか。大都会の田舎風居酒屋だ。
新宿アルタ、「笑っていいとも」を公開中継している有名なビルだが、ここから歩いて3分。居酒屋のだぴんがある。

タケ先生の鍼灸の帰りに寄った。久しぶりに一人酒である。逆に一人だから店内をいろいろ観察した。
ここの店主は山梨出身らしい。店の看板に甲斐路・酒うまいものとある。酒の肴のメニューも甲州名物が並んでいる。

店内、客席はカウンター7人掛け、奥のボックス4人掛けが4席。小上がりが4人掛けが4つ。大きいテーブルに8人が座る。計47人の客が座ることができる。
従業員というか御用聞きが3人。厨房に4人だ。7時過ぎに店に入るとほとんど満席。若い男女は皆無。ほとんど私と同世代の中年の男女。

私は熱燗を頼んだ。隣の親父は焼酎、「古式かめ壷仕込み・薩摩鉄幹」をボトルで飲んでいる。うまそうだ。流行の居酒屋チェーンでは酒は薄めてあるし、ビールは発泡酒というのが多い。だがのだぴんはそんなことはない。
私はすぐに小あじ寿司を頼む。さらにつぶ貝の刺身、さらにあみえびのかき揚を追加する。とにかくうまい。

落ち着いたところで周りを見ると、サラリーマン風がほとんど。他は登山客のようなグループが3つほどある。週末で、夜行で信州にでも出かけるのだろう。

一人酒の退屈でメニューをうつしてきた。参考までに書いておく。
焼きそらまめ500円、わかさぎ天500円、あじにぎり600円、山菜てんぷら600円、かきあげ480円、らっきょう350円、茶碗蒸し500円。

1時間ほど飲んでいたらトイレに行きたくなる。小用の便器の上に張り紙があった。田舎の町で行くとよく見かける注意書きだ。
「急ぐとも 心静かに 手をそえて けっして・・・・・・」どこまでいっても、この店は大都会の田舎の店だった。

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by yamato-y | 2007-02-16 23:17 | ブロギニストのDJ | Comments(1)


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