北国の影の毛深き
昨夜は冷え込んだ。冬近いことを感じる。
10月第3日曜日。ぬけるような青空が広がっている。微風が椎の梢をわたる。
隣家の雨戸を繰る音がする。目が覚めても布団のなかでじっとしていた。
夢をみた。金沢の夢だ。教室のなかというか研究室のなかだから学生時代の夢だ。卒業近くの慌しい日々の出来事だった。またしても過去へのとらわれか。今年の春先に、この北国の町のことが気になってしかたがなくなったことがあった。
そして訪ねることがあって、知ったのは知人の二人が急逝していたことだった。まだ60の坂を越えてまもない人たちの死はこたえた。
その折に、長く消息を知らなかった友人が浜松に在住することを知り連絡をとった。長い手紙が来て、二人の知人の死は悲しいが、これからまだ続く人生を互いにがんばろうと書いてあった。若い頃は難しい性格と思われた人の思いがけない温情の言葉だった。
50を半ば過ぎた頃からやたら懐旧の情が湧くようになった。半年とか1年とかで、その思いにとりつかれる。帰っていけないどうしようもないことだけにそこに留まりたくないと思っていても、漏水のようにちょろちょろと心の池に注ぎ込む。
半年以上、そういう気分がなくやってきたのだが、今朝来た。
布団の上で20分瞑想をする。雑念の中から、ふと北国の大学が浮かび上がってくる。
大学のキャンパスは金沢城の城内にあったから、エスケープは十間長屋の上にある植物園が格好だった。薬学部の薬草畑で、畑をうっそうとした木が取り囲んでいた。人影はほとんどなく、晩秋ともなれば落葉を踏む音しか聞こえなかった。そこで寝転がって流れる雲を見ていたことを思い出した。
その気分と必ずしもマッチしないが、鷹羽狩行の句集でみた北国の句が気になった。
北国の影の毛深き鶏頭花
丈の高い鶏頭がひょろひょろと立っている心細いさまが見えた。こんなことを書いても仕方がないと思っても書いておかずにいられない。時折襲ってくるこの懐旧の情をなんとか押し止めることができないものだろうか。
瞑想の終りに「諦念」という言葉が浮かんだ。定年は諦念か。
追伸:山道で青いどんぐりを見つけた。初々しい。
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