大磯/鎌倉幻想
江戸から西に向かえば東海道の戸塚で左に折れれば鎌倉、まっすぐ行けば大磯へ出る。二つの里は相模灘を挟んで向き合っている。波は荒いが船を使えば鎌倉時代も江戸時代もそれほど遠くなかっただろう。離れているようで存外近い。
私も一度大磯から船で鎌倉に入りたいと願っている。こゆるぎの浜を出て平塚のかぶと岩、茅ヶ崎のえぼし岩を見ながら江ノ島に向かい、そこからゆっくりと材木座の海岸に船を乗り入れることが出来たらと夢想する。
十年(ととせ)あまり五年(いつとせ)までに住み馴れてなほ忘られぬ鎌倉の里
と中世の貴人が歌にまで詠んだ鎌倉の里という地に憧れる。
水路ということで思い出した。
鎌倉に東慶寺という縁切り寺がある。ここの寺域に入れば俗世間の縁が断たれるという。
江戸の廓を抜け出す遊女は、この寺を目指す事が多かった。江戸を出て六郷の渡しを越えて東海道を西下すれば、女の足ではすぐ追っ手につかまる。知恵を誰かが授けたのか、ある遊女は江戸から千葉に向かう船に乗り込んだという。そして、千葉で船を乗り換えて鎌倉をめざして、東慶寺に駆け込んだ。この水路の利便性が足抜けという快挙を生んだとか。
鎌倉から大磯まで陸路を馬で駆けつけた男が、曽我十郎だ。仇討ち曽我兄弟の兄である。鎌倉武士として出仕していた十郎は大磯の里の廓に恋人がいた。虎御前だ。彼女に会いたさに馬を飛ばして通ったとか。虎のいた里は大磯高来寺山の麓にある。ここは現在高麗(こま)という地名になっている。朝鮮半島からの渡来人の里であり遊里があった地だ。化粧(けわい)坂などという地名も残っている。
―と書いてきたものの、はたと迷った。十郎は鎌倉幕府に出仕していたっけ。ひょっとすると、小田原の下曽我の里から大磯へ通ったのだったか。調べもしないで書いているから、このあたりいい加減だ。ただ、鎌倉時代から江戸時代の頃をぼんやり想像していると楽しい。ついつい筆が滑った。
鎌倉へ西行は出かけて頼朝に会っている。その旅の途中であったのか、それとも別の旅かはっきりしないが、大磯で有名な歌を詠んでいる。
心なき身にもあわれは知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ
大磯のあたりは湿地帯でそこに鴫がいた風景だ。
ところが昨夜読んだ小説「いのちなりけり」に面白い説があった。大磯の鴫(しぎ)立つ沢は死木立つ沢だというのだ。その辺りは死者を弔う場であったから墓標が並んでいたというのだ。後から語呂合わせしたのではないかと思われるが、それでも面白い合わせ方ではあるな。
西行という人はよく東国を旅している。彼の歌のなかに、旅の途中で見た富士山が白い煙をあげているというのがあった。鎌倉時代は富士が活動していたのだ。当時の東海道を思い浮かべてみるだけで楽しい。
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