寒太郎やーい
作曲家の福田和禾子さんが死んだ。まだ66歳だった。
夕刻、先輩ディレクターのYさんから訃報が入った。その先輩のYさんと同年だったからとてもショックを受けていた。私とて変わらない。福田さんは女傑と言いたいような肝っ玉の太い人だったから、まさか60代で亡くなるとは思ってもいなかった。
福田さんにはずいぶんお世話になった。30年前に「ワンツーどん」という学校放送の音楽番組を制作していた頃に編曲者として、力を借りていたのだ。まだまだ女性の社会進出が少なかった時代だ。福田さんは男の音楽家と伍して戦っていた。音楽家の世界は意外と封建的で、女性のアレンジャーということで侮りを受けることが多かっただろうが、福田さんはそれを実力できっちり跳ね返した。私は、「みんなのうた」で、山岳写真家の白籏史朗さんの作詞で福田さん曲の「峠に帰る日」というのをプロデュースしたことがある。上条恒彦さんが歌ってくれた。ヒットこそしなかったがいい歌だったと思っている。
なにより、福田さんのヒット曲は「北風小僧の寒太郎」だった。作詞は黄金コンビだった山川啓介さんだったはずだ。上州の旅ガラスというまた旅イメージの詩に、福田さんはカントリーのメロディをつけるという意表をつくメロディ構成がよかった。堺正章という組み合わせも絶妙だった。木枯らしが吹く季節が来ると必ず流れる晩秋の定番となった名曲だ。
さらに、「赤鬼と青鬼のタンゴ」でもヒットを飛ばした。とにかく、福田さんの音楽は洒落ていた。でも、思いつきで作るようなものでなくきちんとした音楽理論がバックにはあったのだが、それはオクビにも見せない。そこが、福田さんの「ダンディズム」だった。女だてらにスピード狂でレースに出たこともある。愛車はポルシェで東名高速を170キロでぶっ飛ばすのが趣味だった。
お父さんのことを聞いたことがある。戦前、活躍した松平晁という流行歌手だ。お父さんも当時は珍しい芸大出である。「花言葉の唄」などたくさんのヒット曲をもつ。彼は藤山一郎と同じ東京芸術大学出身の学士歌手だった。だから仲がよかった。松平が若死にしたあと、藤山一郎が福田さんの後見人となっていた。
でも、そんな後ろ盾がなくても、福田さんは十分業界で活躍した。彼女も父の後を襲って芸大に入って、本格的に音楽を勉強したうえで、テレビの音楽の世界に入ってきたのだ。
とにかくサバサバした人で、けっして弱音や泣き言を言わない人だった。この夏に局の玄関でばったり遭ったときには、お父さんの遺品を見せてあげると、私に約束をしたばかりだったのに。
昨日、音楽スタジオで録音をやっていた。ヒト段落して、ちょっと一服してくるといって、喫煙室で倒れたそうだ。急な死だったので、司法解剖も受けたときく。まだ私にはその死が信じがたい。
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