朝の読書
『不自由な心』という、白石一文の中編小説を読んだ。中年のサラリーマンの”不倫な”くらしを描いたもので、筋立てを説明したところでどういったことでもない。ただ、その小説のなかで、白石が心惹かれた小説やエッセーなどを引用しながら、主人公の感慨として語らせていることの数々が面白かった。
その一つに「追憶の賞味期間」というのがあった。70歳を過ぎた小説家の「日常」というエッセーに書かれてあったと、この考えを白石は紹介している。50代の頃には少年時代の思い出などを甘く思い出していたものを、此のごろ(70代になってからということか)ではすべて色あせてくると、その小説家は書いている。
《友人にしても、死んでしまった友や、消息不明の過去の友の追憶など、遠くなるばかりだ。・・・追憶にも賞味期間があるようだ。》
この意見に、今の私は肯んじない。遠い日の思い出が、遠くなればなるほど、小さければ小さいほど、心にあまく甦ることが今の私には多いのだ。60になった私の考えは、この老小説家の言い方から類推すれば、まだ50代にあるということだろうか。
この老小説家の言う追憶の賞味期間という考えに疑問をもつ。思い出は、それぞれ固有の味わう期間があって、在る時期を過ぎたら思い出は褪せて来るということを語っていると思うが、それはどうだろう。
追憶に賞味期間があるのではなく、思い出している主体の感受性に賞味期間があるのではということを、この老小説家は言っているのだろうか。
つまり、50や60ではまだ思い出にあまく感傷に浸っているが、70になればそんなことを感じなくなるよと、この老小説家は本当は言いたかったのだろうか。
とすれば、少し先行きに希望がもてて嬉しい。とにかく、57歳で一度目の定年をむかえてから、追憶に浸り、その感傷からなかなか脱出できないことに自分でももてあましていたから。
例えば、長崎で仕事をしていた頃、よくいっしょに局車で取材に出かけた運転手のKuさんのことを思い出す。二人でネタを探すために、長崎から雲仙や島原までよく出かけた。仕事だったから、別段、これといった親愛の情もなく、淡々と取材して歩いただけだが、今になって、その頃のことが懐かしく、あのとき目の前に広がっていた橘湾が目に浮かんで来る。
当時60前だったKuさんも生きていれば今は90に近い。顔を見たいが、見にいく術も理由もない。向こうだって困るだろう。とりたてて大きな苦労をいっしょにやったわけでもないのに訪ねて来られては。
だが、年に2、3回、その頃のことを夢でみる。目が覚めると無性に当時に帰っていきたいと気がする。その高ぶりは目覚め後半時間は続くのだ。この感情を持て余し気味の私にとって、70になればそんなこともなくなるさと、忠告されたようで、少し嬉しいのだ。
中野重治の『むらぎも』という小説がある。この言葉の意味が長く判らなかった。今朝、古語辞典を見ていて、「こころ」を指すのかと気づいた。
むらぎもの、という枕詞があったのだ。この枕詞は「心」にかかると辞典には書かれてある。漢字では群肝のと書く。古代、心は内蔵に宿るとされたかららしい。
古語で、もう一つ発見があった。「こひわたる」という言葉だ。恋ひ渡ると書く。恋い慕って年月を経る、恋い続ける、という意味だ。こんな言葉があったのだ。蕪村の句が例にあがっていた。
恋わたる鎌倉武士のあふぎかな
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