甦った妹の名前
今年の秋は台風が少ない。私は喜んでいる。雨風の襲撃は大磯の山の上は辛いのだ。
大風が吹く度にぎくっとする。大雨が降る度に裏山をのぞく。なにより、我が家の様子を案じる。
それやこれやで、台風は出来るだけ遠ざけたいと思っている。
昨夜は涼しかった。戸を開けたまま寝たら、今朝少し喉が痛かった。少し冷え込んだようだ。やっと秋になった。
来週から京都で集中講義となる。4日間、ぶっ通しの講義のための準備をしておかなくてはならない。今週に入ってから教材として使用する映像のチェックを始めて居る。自分が昔作った作品を久しぶりに見ると、いろいろな思いがある。
長崎時代の「甦った妹の名前」という10分の短い作品を私は制作した。昨夜久しぶりに見た。
昭和20年8月9日、登校していた純心高女の女学生差方保子は原爆に被災して行方不明となった。
遺骨もみつからないまま40年経過していた。二人の姉たちは長く妹の行方を追っていた。遺骨がなくとも、せめて女学校に在籍していたことだけでも記録しておきたいと母校の純心高等学校に出向く。その様子を私は撮影した。
学校では当時を知る関係者や同学年の生存者にあたって聴取するが、差方という変わった名前にもかかわらず、在籍していたという事実がみつからない。
落胆した姉たちは、当時妹が語った学校の様子をぼそぼそと話しはじめた。シスターである校長はぎょっとした顔で耳を傾ける。というのは、保子が姉たちに語った様子は自分が昭和20年の夏に学校の前で見た光景だったからだ。
突然、校長は心当たりが一つあるといって東京へ電話する。保子と同学年の同窓生だ。彼女は戦後長崎を離れて東京で暮らしていたが、差方保子という人物を覚えていた。この学校に在籍していたということを証言してくれた。
この電話で校長が確認を取っている間、カメラはずっと二人の姉を撮っていた。姉たちは滂沱とする涙を押さえられなかった。
この画面を昨夜遅く見ていて、私も胸が熱くなった。
当時、私は30代。姉たちは60過ぎでずいぶん年寄りに思えた、が、今の私とほぼ同じなのだと知ったら、彼女たちの思いがよく分かった。
終戦から2、30年は生活に追われて、気にはなっていても、妹を探す時間も余力もなかったのだろう。子育てを終えて、自分の時間をとりもどしたとき、ようやく爆死した妹と向き合うことができたのだ。そして、憑かれたように、長崎市内の殉難碑、寺社を調べて回ったのだ。
60歳になって、やっと彼女たちの心境が分かった。
差方保子の名前が、その後、純心高女殉難の碑に刻まれた。その名前を見に長崎へ行きたいと思った。
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