”内心の声”
昨夜も「冬のソナタ」を見た。10月から始める講座のために、再度見直しをし、ノートをとっている。
昨日見たのは17話「障害」。全巻20話の物語は終わりに近づいている。それぞれの立場やキャラクターが確立されていて、そのうえの葛藤だから、物語は人物たちの出入りだけでなく心理深い部分まで描かれる。
ユジンと異母兄弟であることを密かに知ったチュンサンは、ユジンを連れて海岸へ出掛ける。それを最後の思い出とするためだ。このとき、ドラマで初めて”内心の声”が使われる。
<ぼくは、ここで今彼女を手放そうとしている・・・>チュンサンの内心の声だ。
表面は彼女と海に来たことを喜んでみせるが、内心は違うという情景だ。私の記憶でいえば、この「冬のソナタ」で”内心の声”が使われるのはここともう一箇所しかないはずだ。最初、この場面を見たとき他の描き方と遊離しているので違和を感じた。さすがの名手ユン・ソクホでもこういう手法を選ばざるをえないのだと、ある意味で感心もした。
一般にドラマは対話としてのせりふはあっても、心のなかのつぶやきは表さずに、観客に胸の内を想像させるという手法をとる。むろん、モノローグつまり”内心の声”を最初から織り込んで作られるドラマはあることはある。倉本聡ドラマなどではよく使われる。だが、冬のソナタはそういう形式をとらずに内面を描いてきたのだが、この海辺のシーンではさすがに必要となったのだ。
もう一つの”内心の声”が使われるのは第20話「冬の終わり」だ。アメリカに去ったチュンサンとは別にユジンがパリへ旅立ったことを、たしかサンヒョクの声がボイスオーバーしたはずだ。これはサンヒョクの”内心の声”というより、物語の登場者が観客に報告をしているといった感じを与えた。それまで、そういう演出がなかったから、これも見たとき違和感をもった。
こうして考えてくると、恋愛ドラマといういわば心の物語にもかかわらず、冬のソナタは驚くほど禁欲的に対話だけで内面を描いていることに気づく。つまり、外見の遂行的せりふは語っても、心の内側は発言させなかったことに、制作者の美意識と力量を感じさせる。
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