ラカンさん
ジジェクの『ラカンはこう読め』は難しいがわくわくする。ジャック・ラカンという現代の難問を、ジジェクは分かりやすい例証を挙げて説明してくれる。その手際の鮮やかさに心奪われる。
昨日、カラスの鳴き声について、彼らは対話しているだろうが、その内容を知りたいと私は書いた。鳴き声というシニフィアンに対話の内容シニフィエがあると思い込んでの説明である。ところが、ジジェクは違う視点を提供していた。
アジサシは、魚をつかまえて別のアジサシに渡すという行為を、動物行動学の知見から説明している。渡すというコミニュケーション行為が意味があるのであって、魚を配ること、どんな魚であるかということは、それほど意味があるのではないという。
なるほど、カラスの鳴き声で交わし合っている行為が重要で、鳴き声を使って何かを伝えていると推測するのは、お門違いというわけか。
現代思想なんていうと難しそうだが、このラカン理論が冬ソナにも適応できるのだ、ジジェクを経由すれば――。
われわれが言語で直面するのは、遂行的次元でのメタ選択だということの一例をジジェクは挙げている。
パートナーが私にこう言った。「きみを心から愛している。二人が結ばれれば、ぼくはすべてを君に捧げる。でも警告しておく。もしぼくを拒絶したら、ぼくは理性を失い、きみの人生をめちゃくちゃにするかもしれない。」これって、サンヒョクの考えとそっくりだ。このメッセージの後半は前半を否定している。もしノーと言ったら破滅させてやるなんて言う人が、私を心から愛しているだろうか。ここには、ラカン理論によれば私に対する憎しみ、あるいは無関心が潜んでいるという。
一方、これに対する「偽善」(ジジェク)もある。
「君を愛している。君の答えがどうであろうと、ぼくは受け入れる。だから君の拒絶がぼくを破滅させることになる(ということを君が知っている)としても、心から望んでいるほうを選んでほしい。それがぼくにどんな結果をもたらすかなんて、いっさい考慮に入れないでほしい。」これって、第10話のミニョンさんの言い分とよく似ている。
この言葉をジジェクはラカン理論を借りてこう解釈する。
《この言葉には相手を操作しようとする欺瞞が潜んでいる。いやならいやと言ってほしいという「正直な」主張は、「はいと言え」という無言の圧力になっているのだ。「こんなに愛しているぼくを拒むなんて、できるはずがないだろう?」》
すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているのかを伝達するものだと、ラカンは教えている。そういうことをジジェクが分かりやすく説明してくれるのだ。
しかし、ラカン分析で「冬のソナタ」の登場人物の欲望を読み直すというのも面白いなあ。ラカンをジジェクが回し、ジジェクを読者が回してのらかん遊び。
ラカンさんがそろったらまわそじゃないか、ヨイヤサノヨイヤサ
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