承認
痛ましい事件が続いている。ワイドショーの論調では、常識では分からない若者の闇が在るということ。オピニオン誌の大きな見出しに「若者に気をつけろ」というのがあった。
あんまりではないか。そういう言い方ってあるのか。なんだか、関東大震災のときに流れた「不逞な輩」の都市伝説の反復の気がしてならない。
起きた事件の特異性についてはここでは棚上げして、若い人たちの置かれた状況に目を向けたい。
リア充という言葉を知っていますかと、若い友人から問われた。初めて聞く。リアルが充実しているという意味だそうだ。ネットで文句をいったり悪態をついたりしていても、やはり現実の交遊(友)のなかで自分の存在が承認されることが、若者にも嬉しい心地がするようだ。
どんなに鉄道知識が増加してもアニメの内容に精通しても、彼女が出来て仕事が決まっているような充実した現実があれば、それは羨ましい出来事となるのだ。
このリア充という言葉を遠巻きにしている若者群に思いを馳せたい。
2ちゃんねるで威丈高に物申している若者たちは表面的には行儀の悪い腹立たしい存在だ。だが、その裏側に、リア充を待ち望んでいるという心があると知ると、若者たちの置かれた辛い状況がなんとなく分かる気がする。強がっているその振る舞いが親世代の私にはせつなく思えてくる。
承認といえば、フィギュアを愛する心にそれが含まれているのではないかという仮説を、今もっている。ネオリベの大きな黒々とした手でつかまれ翻弄され、むき出しで世界に放り出されている若者は寄る辺ない。誰からも呼びかけられず、応答することもなく、荒々しいこの世界に立ちつくす”孤児”たち。
であればこそ、目の前にあるフィギュアだけは私を承認していてくれるという安堵感をもたらす。それがなによりという気分が、フィギュアを愛好する者たちの中にあるのではないだろうか。
ひょっとすると、シュミラークルとしてのフィギュアは同じものを所有する人と細くつながっていることになるのではないか。個室に引きこもって自分だけの世界にあるといわれる若者は、ひそかに人と人のつながりを求めているのではないか。その代理として、フィギュアがあるかもしれないと、私は想像してみる。
勉強についていけず、人間関係もうまく作れないヤツって現代ならたいてい漫画を読んで、鬱屈を解消しているという姿ですが、昔の人たちはどうしていたのですか?昔だって、やはりリア充がない”孤児”のような人がいたでしょう?と、若い友人から問われた。
どうしていたかなあ。
浮かんだのは、白波止(白い灯台)に一日中座り込んで釣りばかりしていた級友だ。彼はあのときなぜあの場所に居続けたのだろう。
私だってリア充がいっこうにない存在だった。そんな私に気晴らしとなったのは何かと考えると、二人の弟だった。
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