エンドレスの巨匠
連句でも終わりというのを設定しおかねば、永遠に続くものだ。座という複数の想像力は相乗作用を起こして止め処もなく続く。だから36句で終わりとしておかないととんでもないことになる。この36句を歌仙と呼んで、一つの完結体に古人は措定したのだ。相撲でも芝居でも興行にも終わりがある。千秋楽だ。
表現というのはどこで「筆」を下ろすかというのが大切な判断となる。少なくとも制作主体が自分から終わりと宣言するのは、良心的であればあるほど難しい。もっと描きたい、もっと直したい、という欲望。
ちばてつやという漫画家は幾度も描きなおしをする人だ。書き直したからといって、作品が良くなるとは限らない作家が多いなかで、ちばさんは直したら確実によくなっている作家ですと、担当編集者のイシイさんは力説する。だが、その書き直しに応じているととんでもないことが起きると、イシイさんは怖れる。
漫画の下書きとしてのネーム原稿(せりふをコマ割したもの)が上がった段階で、頁数が把握できるから、そのつもりで編集者がスタンバイしていると、書き直しで原稿の上がりが遅れて、締め切りすれすれで届くことになる。見ると、予定していた枚数より増えているではないか。減る分には、広告とか雑記事で埋めることもできるだろうが、増えると雑誌そのものの設計からやり直しが出てくるのだ。作業の終盤での改編は、編集する者にとって地獄を意味する。
なぜ、そんなことが起きるのか。
当初、設計したコマ割の通りに本絵を描いていくとしても、画の流れが起きてきて、文章の論理ではなく画の論理として、どうしても新しいカットを入れたくなることが出てくる。ちばさんは、特に、物語に没入するとイメージがぶわーっと膨らんでくる。そこが、ちばてつやという才能の偉大な部分であろう。
いきおい、その膨らんだ分だけ、コマ数が増えて、頁がかさむのだ。
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