現実への逃避
昨日起きたバスジャックの犯人は14歳の中学生だった。
名古屋駅から東京駅行きの高速バスに乗車し、バスが走り出した後、運転手の首に果物ナイフを突きつけ、「とにかく走れ」などと脅し、10人ほどの乗客を監禁したという。
その動機を新聞で読んで唖然とする。どうやら、同級生の女の子にふられて感情がもつれたらしい。その女子にふられた後も少年はからんだので、学校側からの注意が両親のもとにいき、それを受けて親子の話し合いのなかで、少年は親から叱られたようだ。少年は、父(42)と母(41)、妹の4人家族と報道されている。
少年は逮捕された後の警察での取り調べに「親にしかられ腹いせにやった。家庭をぐちゃぐちゃにしたかった。世間を騒がせたかった」などと話したという。
この少年の親の気持ちを思う。失恋して素行が荒れていると学校から知らされ、子供を呼んで説教したのだろう。親としてはまず普通のことだ。
その叱られたことを逆恨みして、こんな事件を起こされるなんて、おそらく両親にとっても予想外だったにちがいない。親子喧嘩のはての子供の反抗といっても度を越している。
たしかに、思春期のとば口で失恋なんてことに遭遇すると、心が乱れ感情のコントロールができなくなることもあろう。いっそ、世の中が滅茶滅茶になったらと妄想することもある。事件を起こして自分が破滅したらと自虐的になることもあろう。
だが、たいていは頭のなかの妄想であって、実際に行動を起こすまでにはかなり大きな溝があるはずだが、この少年は一気に飛び越えている。
今読んでいる岩波新書『不可能性の時代」(大澤真幸)の一節が響く。我々は今、虚構の時代の終わりにあって、不可能性の時代へと移行しつつあるという。虚構の時代の欲望をさらに徹底化させた超虚構の時代にある。そこでは「現実への逃避」が行われると大澤は説く。「現実からの逃避」ではない、「現実への逃避」。現実以上の現実。〈極度に暴力的であったり、激しかったりする現実へと逃避している〉。
まさに、昨日のバスジャック事件は、その例としてあまりにぴったりではないかと大澤の指摘に慄然とする。
アイデンティティの喪失ということが、思春期に起きるとエリクソンが書いている。彼がこのことを書いたのは、第2次大戦から帰還した若い兵士のなかに心を病んだ人たちがいたことから探求したのだ。
アイデンティティとは、自分とは何か、自分はどう生きればいいのか、社会のなかでの役割は何か、というようなことだと、神谷美恵子はまとめていてくれる。
自分は何かということは、自分は社会でどう生きるかということと密接に関連している。だから、未開社会などで役割がはっきりしている場合、若者は迷うことは少なくなる。全体主義の時代、兵隊となって御国のために死ぬという、他者の欲望がはっきりしている場合、若者は悩むことはなくなる。
自由にしていいといわれると、若者は生きるのに苦しい。
どうやっていいのか分からないという追い詰められたことが起きる。学生たちに就職の悩みを聞くと、自分が何をしたいのか分からないから就職できないという。モラトリアムといって、ニートであったり非正規雇用であったりする若者たちを貶める論が、右派雑誌などで見かけるが、それって違うのではないか。
昨日の少年の衝動は、特別のことではなく、かなり多くの若者が同じような「現実への逃避」を胸中にかかえているのではないだろうか。
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