霧降
異様な霧の朝。
目が覚めて窓の外を見ると、乳色の霧が這っている。昨夜来の霧がまだ晴れてはいないのだと知る。屋上に上がって谷間を望むと深い霧に鎖されていた。これはどうしたことか。
こんな夏はこれまで体験したことがない。湘南の低山がまるで浅間岳のように様変わりしている。これでは相模湾にも海霧が発生しているかもしれない。
辻邦生の文章でこんな一節を見つけた。
《旅に死すとは、どうやらこの「永遠」のほうを向いて、おのずと、自分の死にも気づかず夢みつつ消えてゆくことではないか。》
芭蕉の辞世「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句に即して書いた辻の文章だ。
はっとした。気がついたら死んでいたということもあるか。
夢か現か、幻か。辻は美に憑かれて死を越えてゆく詩人として芭蕉でありリルケでありプルーストであり西行であることを挙げている。永遠という言葉が素直に沁みこんで来る、今朝の霧・・・。
裏山から鶯の声が聞こえてくる。霧の中から響いてくる。なぜかは知らねど勿体無さがという言葉がふと浮かんでくる。
私という主体の根拠もあいまい(アンビギュアス)になる。デカルト的懐疑ではないが、ここにいる私は誰だろうか、本当に私は在るのだろうか、というコギト命題をあらためて思う。
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