夢の遠近法
寝床のなかでぼんやりしている。傍らの目覚まし時計の秒針が時を刻む。規則正しい音が心臓と呼応する。遠くで寝ぼけたようなカラスの声がする。芭蕉ではないが、「鳥の声白し」。さらに遠くから高速道路を疾走する車の音が地鳴りのようにうすく響いてくる。と、突然カラスがけたたましい声を上げながらベランダのそばを通過した。音が示す遠近に感動する。
昨日、目黒川の橋の上で両岸に広がる並木道の風景を見て、並木の緑が遠くに行けば行くほどうす青くなっていることに気づいた。これがダ・ヴィンチが唱えた色遠近法かと納得した。
定年してから見る夢は、昔に知り合った人が突然出てくることが多い。脈絡もないし、時間的にも20年も30年も前の付き合った人たちだから、その唐突さに夢を見ながら明らかに私は戸惑っている。
しかも、古い出来事に関わる人物でありながら、まるで昨日のことのような明確さで、人物が現れて来るのは閉口する。しかも、その人物達と私の実際の関わりはほとんどなかったという場合は、目覚めてからの感情を制御しにくい。
というのは、交友はおろか音信すら交わしたことのない人に連絡をとりようもない。近年の私は懐かしい人を思い出すと、手紙を書くことが多くなっているのだが、そういうこともできないままの「想起」というのは感情のうえでよろしくない。
記憶の、いや夢の記憶には遠近法がないのかしら。昔のことは朧(おぼろ)で最近のことははっきりしている、縁(ゆかり)のある人は明確でそうでない人はぼんやりというorder(秩序、順番)のようなものはないのだろうか。
近年物忘れはひどくなっているのに、なぜ昔のことを昨日のことのように思い出すのであろうか。なぜ、当時印象も薄かった人のことが気になったりするのだろうか。
今朝も明け方に見た夢は意外な人物だった。大学でジュニアの頃に同じクラスであったその人は、卒業後兵庫県の竜野という地へ教員として行ったということしか知らない。浪人していたから私より年長だった。同じクラスといっても、教室で言葉を交わすぐらいで、いっしょに酒を飲んだこともない。いつもにこにこ笑っている人だなあとしか覚えていないのだが、その人が明け方に親しげに私に話しかけてきたのだ。
意味などむろんないだろう。気まぐれに私の無意識から浮かび上がっただけにちがいない。こんなあぶくのような夢でも、その像が妙にくっきりしていると気になるものだ。
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