冬ソナ物語論・補遺
冬ソナ論に、刺激的なアドバイスを受けた。公開的にここで考えることにしよう。さて、ムッシューの意見に耳を傾ける。
まず、私が冬ソナは物語であると規定したことで、ムッシューはこう問題提起をしてくれた。
《それにしても「出来事」は物語を盛り込むしかない、というのはそもそも何故なのでしょう?…もしかすると、「出来事」こそ、語りえない何か、つまりトラウマなのではないでしょうか。ロラン・バルトは、写真論の中で「プンクトゥム」という言葉を使って、主題には収まりきれない特異性のようなもの、何か見る主体を貫くようなものについて語っていますが、そういうものが「出来事」にはある気がします。》
このトラウマという概念が私にはまだ分からないが、出来事つまりわざわざ意識にのぼってくる出来事というのはあらゆる意味で、語りたがる主体にとって深い外傷のようなものであるとは思う。だが、傷はそのままでは他者には伝わらない。
《「それ」を「そのまま」表現するのは不可能です。言葉は、いつだってその「語りえないこと」の周りを逡巡しています。言い換えれば、その逡巡する運動のことを僕らは「物語」と言ってるのではないでしょうか。最近、僕はそんな風に考えております。ヒッチコックの言う「マクガフィン」も、それは、「出来事」を「代理」して被っているのではないでしょうか。その「代理=言葉」の移動こそが物語といえませんか。小さな子どもが「いないいない・ばあ」をやって喜ぶのは、そこに物語=言葉=代理の原初的な体験があるからではないでしょうか。》
だんだん難しくなる。さすがムッシューは若いのに現代思想に通暁しているが、当方は必死で食らいつくことにする。
出来事をできるだけ他者に分かるように形にしようとする営み(必ずしも他者ばかりではない。自分にもということもあろう)をムッシューは逡巡する運動と呼んでいるのではないだろうか。そうであれば、私も同意する。その「原・出来事」をそのまま取り出せないので言葉というものに仮託して表象するとムッシューは見ている。なるほど。言葉とはその本質において代理でしかないということを、まずムッシューは押さえてくれる。
《ところで、今「代理」と言いましたが、ドキュメンタリーもドラマも興味を持っておられるyamatoさんに伺ってみたいことがあります。yamatoさんは、representという言葉をどのように訳されますか?一つは、表象ですね。文化的に表象する、という意味です。それからもう一つは、代表、代弁ですね。政治的に(弱者の声などを)代弁する、という意味になります。ドラマは恐らく私たちの欲望を文化的に表象している、ということになると思うのですが、ドキュメンタリーは果たして文化の表象をしているのか、それとも、例えば「誰かの思いを代弁している」のか、テレビってそこが非常に曖昧な気がします。》
以前から表象という言葉はrepresentということが気になっていた。代表という意味もはらんでいる。そればかりか「再現」というのも含意している。面白いなあ。
この後は、ムッシューはドラマ論から離れてドキュメンタリーに移行しているので、その議論は別の機会にしたい。
この若い友人の助言を得て、再度「冬のソナタ」の物語性について考えてみる。冬のソナタの「原・出来事」とは何だろうか。いや、一言で言えないから物語というメディアを借用したわけだが、あえて大胆にくくるとすれば――
内田樹師であれば、「宿命の愛」ということだろうか。
私は、今ふと思い浮かべたのは、「初恋が再びあなたの前に現れたら、あなたはどうするでしょう」というユン命題だった。
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