燻製のにしん(red herring)
ミステリ用語で、「燻製のにしん」というのがあるということを内田樹の著書で知った。偽おとりというかおとりというか、犯罪を追う人間(探偵とか刑事とか)の目を眩ませる偽の犯跡をいう。昔、猟犬を、燻製にしんを使って獲物の匂いと紛らわしくして訓練したことから、この言葉が生まれた。犯人が、自分が犯したとされることから追跡者の目を逸らそうと仕掛ける仕業をいうのだ。
ブログというのは日記だ。3年近くほぼ毎日書いてきたから今では2000件の記事となる。よく飽きないなあと自分でも感心しつつ、書かずにいられない。では、後になってこの記事を読めば、その当時の私の心境がストレートに分かるかといえば、そうはならない。むしろそこで書かれてないことのほうが意味がある。「不在」の意味だ。
週末、東西の二人の文学者の日記を読んだ。「トーマス・マン日記」と「野上弥生子日記」。
いずれも日記文学と呼びたいほど面白かった。野上は夫との諍いや性的不満をかなりはっきりと書いているし、マンは同性に対する関心を隠していなかったりするのだ。本心を曲げずに書いていると思ってしまう。
マンはこの日記の公開を彼の死後20年とした。そこに書かれた人物が生きていたら迷惑がかかると恐れたのだ。いつかは見られるかもしれないと予期して、日記をマンは書いていたと思われる。野上は記述のうえで、いつかは見られるということを前提にしていたのではないか。そうと思われる箇所がいくつもある。こうして書かれた日記文学とはいったい何か。事実として記述されたジャンルと言えるだろうか。
私のブログ体験から考えると、記事として書かれてあることより、むしろ書かなかったことのほうがより多くの私の「真実」がある。書かないと抑圧する感情のなかに、私が在る。
とすれば、マンも野上もその日記は「燻製のにしん」で、実は知られたくないことが別にあったとはいえないか。それは書かれないという不在で示されていることになる。
一国の歴史記述などであれば、「燻製のにしん」は確信犯的に使われているにちがいない。建国の正当性を語るに都合の悪いことは排除して、むしろそういうものから目を逸らさせる事実を馬鹿丁寧に記すというのが、権力者の欲望だから。
以前から、「古事記」をそういう目で読み解きたいと夢想している。たまたま「キトラ古墳発掘」の特集を制作したときに、天武天皇系という勝者は自分らにとって不都合なことをすべて消したと直感することがあった。だから、「古事記」は壮大な「燻製のにしん」かもしれない。
この「燻製のにしん」理論はいろいろな使い道がありそうだ。
以前から関心をもってきた向田邦子の不在の恋人についても、応用できるのじゃないだろうか。
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