定年再出発 |
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川崎のぼるさん
日曜日の夜、劇画家の川崎のぼるさんをインタビューした。同席したのは、同じ劇画家のビッグ錠さん、貸本マンガ家だった時代の編集者の松坂さんとアシスタントの人たちだ。 現在、熊本在住の川崎さんは久しぶりに上京してきたので、昔のメンバーで集まって当時の赤貧時代を語ろうよということになり、その席に私は押しかけて話を聞いた。 川崎さんは昭和20年の大阪空襲で焼けだされ九州諫早に疎開、その地で小学校時代を過ごす。やがて、鋳物工だった父が職を尼崎に求めたのを契機に関西にやってくる。中学校の頃からマンガを描き始めていた。中学校を卒業すると、町工場に勤めた。仕事をしながら夜中にマンガを描いて原稿を溜めた。1年経過したところで、大阪曾根崎新地にあった研文社という出版社に原稿を持ち込んだ。そこで、たった一人で貸本マンガの編集をしていたのが松坂さんで、川崎さんより6、7歳年長だった。松坂さん自身漫画家になりたかったが、画に自信がないことと、同志社大学に通学していたが単位不足で中退ということもあって、研文社の編集員になっていた。彼は、川崎少年の原稿をすぐに単行本にした。 この松坂さんを慕って社に出入りするうち、同じ年代のやはり漫画家志望の高校生を川崎さんは紹介される。ビッグ錠こと佃竜二さんだ。佃さんは川崎さんより2歳年上だったが、二人は意気投合し、その後親しく交わる。 川崎さんが上京して駒込に住んだときも、佃さんや松坂さんが転がり込んできて”同棲”もする。その当時は極貧を体験することになるが、その話はここでは省略。 名作「巨人の星」について話を聞いた。この話が舞い込んだ頃、川崎さんは「少年サンデー」で単発の連載をもっていた。 長期連載でなく、6回読み切りのようなシリーズだ。これが評判よく、次の連載も依頼されていた。 そこへ、「少年マガジン」の内田編集長、宮原マンガ班チーフがやって来た。原作のある野球マンガを描いてほしいと懇願される。だが、サンデーの連載を受けていた川崎さんは多忙を理由に断る。でも、マガジンの二人はけっして諦めずに、幾度となく川崎さんの部屋を訪ねて来た。そして、根負けした川崎さんはついにオーケーを出す。 梶原一騎の原作ということには抵抗はなかったかと聞いた。川崎さんはそんなことは気にしなかった。面白いものであれば歓迎という立場だった。だが、梶原はやはり活字の人で、物語は書いてあっても画のことはまったく書かれてない。逆に、そこに川崎さんの活躍の場があり、原稿から触発されたイメージを最大に膨らませた。ボールを1球投げるのに3週間もかかってと批判されることもあったが、その画作りはすべて川崎さんの範疇であった。それを見た梶原がそのシーンに刺激を受けて、さらに物語を強化して原稿にするという、原作ーマンガのキャッチボールのいい循環が起きた。 この当時の川崎、梶原、内田/宮原、の関係を、川崎さんはマッチ関係と言った。マッチだけでもマッチ箱だけでも火はつかないが、互いにこすれ合うとぼっと大きな炎を燃やす、そんな関係に互いにしましょうと3者で意思を統一していた。 「あしたのジョー」のちばてつやさんと梶原一騎との関係では、原稿のストーリーを一部ちばさんが変えることもあったと聞くが、私の場合はそういうことはありませんでした、と川崎さんは語る。その代わり、文章を画像化することについてはすべて自分で行った。だからディテールは梶原さんは、マンガを見てから知ったことも多いでしょうねという。例えば、星飛雄馬の住む長屋も、関東のそれではなく大阪式の長屋でしたよ、と川崎さんは笑った。 内向的で内気な人物と聞いていた川崎のぼるさん。実際の素顔はまったく違って、明るく雄弁な人だった。若かりし頃の苦闘をともにした人たちに混じっての話だから、いつも以上に口数が多くなったのかもしれないが、まったく気取りのない闊達な人柄に好感をもった。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
by yamato-y
| 2008-06-10 07:13
| 大伴昌司の遺産
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