喪失
『縁は異なもの』という、白洲正子と河合隼雄の対談を読んだ。「悲しみ」という河合のエッセーが対談の合間に挟まれていて、それが心に残った。
《最愛の人や、最大の恩人を失う悲しみは、それをモロに受けると、人間はなかなか立ち上がれない――時にはそのために死ぬ――のではなかろうか。それを防ぐために、無意識的な防衛作用が起こって、まったく些細なことに気をとられるものと思われる。ともかく、悲しみの感情からは絶縁される。》
こうしていったん危機をストレートにかぶることを回避しておいて、徐々に悲しみに耐えていくように人間はできているのではないかと、河合は語る。
《人間が生きるということの背後には実に深い、「悲しみ」とも名づけ難い感情が流れているのではなかろうか》
この「悲しみ」はキリスト教で教える原罪にも匹敵するものではないかと、河合は考えている。
この箇所を読みながら、私は今年の初めに探した、あの人たちのことを思い出していた。渋谷で居酒屋を営んでいた夫婦のことだ。二人は引退して千葉に引き込んだのだが、主人のほうが癌で死去して女将だけが残された。その女将の悲しみは深く、私たちの前から姿を消したのだ。その人を私は探し、そして尋ね当てた。接触はできたが、会いたくないという返事だった。なじみの私たちと会えば、亡くなった主人を思い起こすことがさらに強くなるからという理由だった。
電話口で語る女将の言葉は悲しみで満ちていた。いわば、生ける屍のような精彩を
欠いたうつろな声だった。今も聞こえる。
人は最愛の人を亡くすということは、これほど心を滅ぼすものかと、そのとき思った。
そして、この『縁は異なもの』という本では河合はその後他界した白洲を悼む文章を書いている。彼女が去った悲しみにふれている。だが、その白洲は美しい風景のなかを去って行ったことだろうと、自ら慰めている。河合のこの言葉を読んで、私は人生の秘密を少しだけ見た気がする。
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