coのこと
佐藤佐太郎の短歌。
永きながき一生(ひとよ)を生きし思ひにて春の西日のさす部屋に居り
人生がときどきこれほど苦しいものかと思うときがやってくるが、そういう心境に佐藤もあったのだろう。と、私は我田引水で解釈して味わう。
若い友人たちと話していて、新しい潮流に接した。その一つに「誤読」する自由、喜びということを教えられた。
テレビの番組はメッセージ中心主義で、作者はなんとか自分の意図を受け手である視聴者に届けていきたいと願い、造りの段階でそういう努力をする。だから、放送終了後の反響で思惑と離れた感想や感動をもらうと戸惑うし、正直言えば敗北感を抱くこともある。そういうつもりで表現したのじゃないのに、という口惜しさがある。
だが、それは作者、作家の押しつけ(言い過ぎかもしれないが、ある種の暴力)であって、作品自身にとってみればそれも一つの解釈に過ぎないという見方もできる。むしろ誤読されることで、作品は多様性、多義性を獲得することになるのでは、というのが「誤読」の意味だということを、若い人から教わった。
上述した佐藤佐太郎の短歌とて、佐藤は私の解釈とは違う意図で詠んだのかもしれないが、私はかように解釈して受け取り、そして私の「部屋」にしまい込む。私の「ながき一生」として、格納されるのだ。
別の年少の友人から聞いた。最近、ローマ字表記するとき、女性の名前の××子という部分の子のスペルをkoでなくcoとする。
yoshicoとかchizucoとかにするのが流行っているそうだ。
この話はちょっと驚いた。昔、ヘボン式の表記では、ちはchiとするのであってtiとはしないということを教わったが、こはkoであってcoというのはなかったと思う。なにか、coのほうが新しい気がするし、自分の意見をもつ女性という感じが出ていると、私は想像したのだが、これも誤読かな。いささか過剰かもしれないが。
話はまた先の佐藤の歌にもどるが、この作品は「廚音」というタイトルのついた一群にあった。
この廚音(ちゅうおん)という言葉がいいな。台所の音という意味。料理をしている何気ない音が、春の夕暮れなどにふとなにげなく聞こえてくるという風景は悪くない。
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