藤の雨
昨日、二人の友から連絡をもらった。一人は長い付き合いの友、一人は年少の友。おそらく、その前に記したブログ「ひがみ」を見てのことだ。長年の友は、団塊ということと戯れているでしょうと当方を見透かしたように揶揄する調子。年少の友は、「最近ブルーですか」と心配をしてくれた。
さすが長年の友はよく見抜いている。ひがんだことを言いながらめげてなんかいない、どころかそれを楽しんでいたりする私の性格を。年少の友には悪いが、実のところそうです。すいません。ご心配をおかけして。
サイードの遺著『晩年のスタイル』を読み返していて、気になる語に出会った。アドルノが作曲家のシュトラウスを評した言葉だ。《アドルノがシュトラウスに見るのは、退行と技巧の巨匠であり、そこにおいて合体している老齢性と幼児性は、周囲の腐敗した秩序に対する一種の抵抗なのである。》
これはナチズムに加担しないようにしたシュトラウスの戦略だということを言っている箇所だが、そこに引かれたわけではない。「退行」という言葉に私は立ち止まったのだ。
還暦通過後、やたらとセンチになっている、私の「スタイル」は退行ではないかということ。あけすけに言えば、甘ったれているということ。それは、内心分かってはいたが、晩年のスタイルというふうに括られて登場する「退行性」となると、もう少し前向きにそのセンチという「退行性」を活用すべきなのだろうか。とマジに考え込んでみたりもする。
とグダグダ考えていると、午後から雨になった。小ぬか雨だ。
雨の中、散歩がてら、麓の大磯町立図書館に出かけた。連休用の書籍の確保だ。
『太宰治滑稽小説集』(みすず)、『花を旅する』(栗田勇)、『ぐびじん草』(大岡信)
『英雄を謳うまい』(村上春樹訳)、『而今の花』(栗田勇)、『クロッカスの花』(庄野潤三)
『微光の道』(辻邦生)、『奇岩城』(ルブラン)、『本の本』(斎藤美奈子)、『ゾディアック』(グレイスミス)、『現代詩手帖4』(茨木のり子)
いっぱい抱えて、山道を上がる。これからビールでも飲みながら読むぞと思うと、自然顔がほころぶ。
栗田の『花を旅する』の“藤”の一節だけ拾い読みをツヴァイク道でする。5月の数多い草花のなかで栗田は藤を挙げている。公園の藤棚の藤もいいが、なにより山中で見る藤が最高と記す。
《静かな奥深い自然のなかで木にからみつくようになる。その驚きと華やかさ、そこに衝撃をうけた思いは深いということです。》
花のない時期の藤というのはやたら厚かましい樹木だ。他の木というか親木というか、それにからみついて自力で生きているようにみえない。そのくせ、親木以上に元気はつらつと生えている。なんとなく腹立たしい木なのだが、初夏になって花を見せると、とてつもなく清楚なうすムラサキの花を垂れ下げるのだから、たまらない。しかも、木の高い梢にあるので普通目線では気がつかず、ふとした拍子で見上げて、花を知ることになる。その驚きがますます薄紫を情趣深いものにするのだ。
今日はそれに加えて細い銀の雨が降っている。
藤の雨誰にも会わぬ山の道
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング