ことばの勉強室
政治学者の山口二郎が「辞書を引くことの意義」を記していた。電子辞書はその言葉の意味だけが簡単に調べられるという便利さだけで成り立っていて、その周辺の言葉に広がっていかないということを不満に思っていることに共感した。たしかに紙の辞書を引くと、その言葉だけを参照するだけでなく、その周辺の語句まで知見が広がる。私が愛用するのは角川の類語国語辞典で、著者は大野晋のやつだ。これは、お目当ての言葉から類似の語群に広がり、読んでいて楽しい。こういう喜びがパソコンという機械の発達でなくなった。当然、辞書を引かず電子辞書に頼る人の言葉のふくらみがなくなったといわれるのも故なしとしない。
新しい言葉を知ると楽しいものだ。今朝、覚えた語句を備忘のため書いておこう。といっても歳時記にある季語だから、一般的でないかもしれないが、日本語とは本当に美しいと思わせる言葉が並んでいた。
「遍路」は春の季語とは初めて知った。たしかに遍路道に咲く菜の花といった風景が浮かんできて、春霞の中をゆくお遍路さんが似合っているのだろう。ただ、晩秋の暮れてゆく道に一人行くお遍路さんも悪くないと思ってもみる。その場合は「秋遍路」とすればいいのだろう。
季節は秋だが、虫の声がある。この言葉のバリエーション。うるさいばかりに虫が鳴いているのは「虫しぐれ」。そんな夜を「虫の夜」。姿は見えないが鳴いているさまは「虫の闇」。
だんだん鳴く声が小さくなっていくのは「すがれ虫」「残る虫」。日本語は豊かだ。
水原秋桜子の俳句の評釈を読むと、ずいぶん言葉に敏感な人だと思わされる。烏頭子の次の句をしっかり見抜いて、いや句の景も情も読み抜いている。
街道のまん中に落つ蛍かな 烏頭子
道の両側に草むらがあって、そこから蛍がふらふらと上がって、あるいは対岸の草原に落ちたり、あるいは道の真ん中に落ちたりという景を詠んでいる。私にはそこまでしか読めないが、秋桜子はこれは月の出ていない暗い夜とみる。
〈星はまたたいているが暗い夜だ。…この句は街道に落ちる蛍火だけを描いて、月なき夏の夜の暗さを遺憾なきまでに現している。〉
たった17文字のなかに宇宙を読み取る俳人というのはすごいものだ。
三井寺の花の散りくる軒端かな 素夕
大きな景のなかから、三井寺と麓の家の軒端、それに落花を配しただけだが、光景が目に浮かぶと秋桜子はほめる。この作品などはきわめて映像的な句だ。軒端に花びらが落ちてくる。これはミディアムなサイズのショットで押さえる。カメラはゆっくりズームバックして画格を大きくしていく。最後まで引ききると、画面の上半分には壮大な三井寺の伽藍がある。下半分には小さな山家がある。春の夕暮れの穏やかな眠くなるような情景だ。
言葉が持つ表象性(representation=再現性)をあらためて思う。
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