隠れた名作
今、「原爆報道」のことを調べている。戦後、戦争の記憶はどのように伝えられて来たかということを考えるためだ。
原爆の事実については、当初占領軍によって報道が制限された。新聞の場合はプレスコード、ラジオの場合はラジオコードによって事前検閲を受けて報道させられたため、サンフランシスコ講和が成立するまで、その実相は広島、長崎の地元から広がることはなかった。
占領が終わっても、朝鮮戦争が始まり、冷戦構造による日米同盟の強化ということで、原爆被害者の悲惨ということは極力抑えられることになる。やがてテレビの本放送が始まっても、この傾向は長く続き、本格的な原爆報道は昭和40年代になるまで待つことになる。被爆から20年以上の年月が経過する。
テレビは当初フィルムカメラでの記録を中心とした。今の発達したVTRからみると考えられないほど記憶の容量も少なく、表現もプリミティブなものであった。その中で、広島、長崎の地元の放送局はさまざまな工夫を凝らしながら番組を作って行く。
昭和50年に、NHK長崎局で名作が生まれた。「空白の74時間47分~広島から長崎へ~」である。
最初の原爆は20年8月6日午前8時15分、広島。次の原爆は8月9日午前11時2分、長崎。この間74時間47分があった。何があったのか。どうして2発目が投下されることになったか。戦争遂行の最高権力はこの間いかなる動き判断をしていたのか。
番組は、元内閣書記官長だった迫水久常や陸軍中将有末精三らの証言から、ポツダム宣言受諾をめぐる議論と混乱の実態を浮き彫りにする。
そして、2重に被爆した人物を探し当てて、彼の数奇な生涯に光をあてたのだ。
その人は佐藤邦義。彼は広島で被爆した後、必死で九州まで逃げ延びて、ふるさと長崎までたどり着く。そして、浦上の駅に立ったとき、2発目の原爆の洗礼を浴びる。ウラニウム型とプルトニウム型の2種類の原子爆弾を彼は身に受ける。こんなことがあるのだろうか。
しかも彼はその後も生きて、昭和50年当時、天草のある町で公務員として働いていたのだ。
表面は穏やかなその人物の内面に深く沈んだ「原子爆弾」。カメラはただその姿をじっと撮るばかり。
この番組は、九州のローカル放送だったため、多くの目に触れてはいない。東京にもその成果は届かなかった。だが、戦争、原爆というものの非人間性をとらえた、紛れもない名作であった。
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