イメージは視覚だけでない
瞑想を再開して1ヶ月余り。朝の20分は長く感じられる。スムーズに入り込めると時間の経つのが早い。
それはめったにない。たいてい、経過時間が長く感じられて、目を閉じて10分過ぎで一つの段落が来てしまう。
瞑想しながらイメージを形成しようとする。思っていることを「映像」にしてみようと努力するのだが、なかなかそうはならない。
イメージとは映画のようなものだと思い込んでいた。
ところがそうではないという意見を知って、目からウロコが落ちた。評論家の多木浩二が河合隼雄と箱庭療法などについて話し合っているなかで、その考えを多木が示し、河合も同意しているのだ。
多木「『イメージ』は多種多様で、だいたい定義できないものだと思っています。そんな経験からいうと、心理療法でお使いになっている『イメージ』が視覚的イメージに偏っているように感じますし、それで十分なのかという疑問があります。」
河合「じつは、心理療法では、視覚的なものに限らず、ダンスや音楽、それから連句や連歌を使うものもあります。」
こうして、イメージは何も「画」だけではないことを、多木は念押す。
多木「夢のイメージを語るときに、心理学者ないしは精神分析医は、まるで映画を見るように語っている気がするのですけれども、はたしてそうなのか、という疑問があるのです。」
なるほど、なるほど。表象というのはreprezenntation。再現の意味も重なっていて、それは画でもって再現されると勝手に思い込んでいたが、
表象の象はかたちで、かたちに表すということである。このかたちは何も視覚だけではないのだな。音だってかたちがある。匂いもあるかもしれない。
もういちど、今夜でも瞑想しながら、イメージについて試行してみよう。
ついでながら多木がサルトルの語るイメージの定義をばっさり斬っているのが面白かった。
「たとえばサルトルは、イメージとはそこにはないものの意識だとしていますが、そのような定義ならしなくていいのでー」
げげー 近年のサルトルは評判悪いな。今から30年前は最新、最高の知性ともてはやされたのだが。
でも、生きていたら、きっとサルトルはチベット問題については一家言あったはずだ。
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