短くて長い人生、長くて短い人生
セネカの『人生の短さ』(岩波文庫)をぱらぱらと読む。つまり、真剣に読むわけでなく、歯切れのいい文章だけを見つけて拾い読みしているだけだ。
冒頭にこんな文章を目にしてしまった。
《われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。》
日曜日の夕刻から夜半にかけてのテレビだらだら三昧の自分を顧みて、上のセネカの言葉に一も二もなく同意してしまう。
5時過ぎ、テレビをつけて笑点を見る。6時、チビまる子ちゃん。6時半サザエさん。7時にニュース前半を覗いて、7時15分からさんまのからくりテレビ。
8時のあたまは大河ドラマ、9時からNスペをちらちら見ながら行列のできる法律相談所で紳介のトークを笑う。10時からうるるん滞在記。放っておくと、およそ4時間はテレビをだらーっと見ることになる。けっして心底楽しんでいるわけではないから、まさに人生を「濫費」している。
明日からナレーションの作成やテロップチェックなど作業が始まるから、その準備でもしなくてはと思いつつ、テレビながら視聴を続ける。うるるんで終わればいいが、ともすると世界遺産や情熱大陸まで引きずることもある。夕方からあっと言う間に深夜となってしまう。
かくして、せっかくの休日もいつのまにか終わって、月曜日がすぐそこまで来ているという状況になる。
自分で人生を短くしている。
もう一冊手にした本、「徘徊老人の夏』(種村季弘)。このエッセー集に「老成の人」という一文があって、その一節はセネカと逆のことを説いていた。
《心が朽ちてからも、西日に照らされて過ごす時間は長い。それなりの人生がある。》
種村はこの結語のために、幼い頃に近所にいたケイちゃんという立教ボーイのお兄さんのエピソードを紹介する。
ケイちゃんはおしゃれでいっぱしの遊び人だった。だが学徒出陣で航空兵になった。B29と戦って墜落。そのとき一命を取り留めたが前歯が欠けた。
戦後、闇市をケイちゃんは特攻隊スタイルで闊歩した。その後姿を消した。
数年後、種村の家族の一人がケイちゃんを小岩のマーケットで見かけた。そこで見たのは「ねんねこに赤ん坊を背負い、女物のチビた下駄をはいていた」ケイちゃんだった。でも、にこにこケイちゃんは笑っていたという。そして、上記の一文へと続くのだ。
《心が朽ちてからも、西日に照らされて過ごす時間は長い。それなりの人生がある。》
ベクトルがすれ違うこの二つの話に、同時に共感してしまう。短くて長い人生。長くて短い人生。
最近の私の心境は、この二つの間を振り子のように行ったり来たりしている。
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