夢をどう読むか
再寝して夢をみた。
8人乗りの大型ジープに乗り込んだ。私は2列目の真ん中に入る。右ドア側には高齢の牧師が座る。左は若者らしい。後部には女子大生たちがわいわい騒いでいる。
バビロニアかアッシリアの遺跡が残る砂漠地帯をジープが疾走する。砂塵が舞うが不快ではない。
乾いた風が頬を撫でる。
途中、昼なのにうす暗がりのなかで夜店が延々と出ている。地元の祭だろうかとつぶやくと、隣の牧師は「祭か企業の仕業か分からないけどね」と皮肉を言う。この人は痩せこけていて鶏ガラのような体つきで、銀髪の下に赤ら顔がある。
なおもジープは砂漠地帯を走る。小高い丘の麓まで来て車が停まる。
背の高い黒人のポーターが牧師を連れて、洞窟の中へ入って行く。私も後を追う。手にはカメラとライトを持っている。
砂が侵入して洞窟の上半分しかない空間に黒人と牧師が立っている。どうやら、洞窟の説明を牧師は受けているらしい。よく見ると、彼らの前の砂の壁には何か大きなものが描かれてある。
エジプト風の象形文字に出てくる動物の絵が彩色されてあるようだ。私はこれは撮影に値するものと判断して二人に「すぐにこれを撮りたいから、ちょっと横によって」と要請。
ライトをつけてカメラを向けると、その絵は思った以上に大きい。さらに、下手の壁には鳥の顔をもつ神官が足を伸ばして座っている図があり、それも撮影。その隣に輝くものがあるから何かと見ると、大きな鏡があった。四角い大きな鏡が砂の壁にはめ込まれている。
暑いが不快でない。だらだら汗が流れるような湿気がないからだ。
私はアレキサンダーの遠征した道の砂漠地帯にいるような気がしている。一夜にして滅んだというバビロニアの古都、ペシャワール周辺の砂山に私は立っている。
目を覚まして、夢の記憶をすぐに言葉に移し替えた。書き上げて、読み直すと、夢のイメージが断片ながら想起される。この場合のイメージというのは完全な映像とはいえない。
ところどころ言葉そのもののようなイメージもある。夢とは映像か言語かどっちだろう。それとも絡み合うものだとすると、それは具体的に再現できないかな。
この夢は番組と明らかに違うのは、黒人ポーターの突然の登場だ。番組であれば唐突で不自然だが、夢での出現では私は「さもありなん」と納得している。この納得という心理状態はこの記憶のなかのどこに置いてあるのだろう。
どうも、今の映像文化にはもう限界に来ているような気がずっとしていて、新しい表現方法を立ち上げてみたいと考えている願望がこの夢になった気がする。
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