ビルマの命
大伴昌司の父、四至本八郎は戦前活躍したジャーナリストだ。アメリカに留学し、日系新聞の主筆までやったことのある米国通の新聞記者だった。
戦争が始まる前に帰国して結婚、大伴が生まれた。やがて、メキシコとの通商を促進する機関の責任者としてメキシコシティに家族を連れて赴任する。3年ほど過ごしたのち、開戦直後に帰国する。この体験を描いた本は当時ベストセラーとなる。
近衛文麿のブレーンであった四至本八郎は、占領が始まったビルマへ民政官として単身赴任する。そこで現地の人に混じっていろいろ改革を行った。善意であったとはいえ、戦争に協力した立場にあったことは後に彼の処遇で禍根を残すことにもなったが、ここでは詳しく記さない。
昭和18年当時、四至本はビルマと日本を往復していた。
あるとき泰緬鉄道を利用して帰国の途についた。クアイ河まで来たとき、鉄道建設に従事させられているオーストラリア人捕虜を目撃した。ふらふらとやせ細った体で鶴嘴をふるっていた。現地の将校が、日本へ帰る四至本八郎にこの現状を陸軍省に報告してほしいと要請した。わずかな飯とうすい味噌汁、たくわん一切れという食事では、みな餓死すると訴えたのだ。
帰国した四至本八郎はすぐに陸軍省に行き、参謀の佐藤賢了を訪ねて、窮状を訴えた。そのとき佐藤は何と言ったか。「甘い、甘い、内地の者ですら飢えているのだ。そんなことを許すわけにはいかない。」と言って、四至本を追い返した。
戦後の1957年に、四至本はイギリス映画「戦場にかける橋」を見たとき、自己の体験をまざまざと思い出した。
『戦場にかける橋』(The Bridge on The River Kwai)は、監督はデヴィッド・リーン。第30回アカデミー賞 作品賞を受賞しているが、この戦時捕虜を主題としていた。
ビルマとの結びつきは四至本家では強くなった。品川の浜田山にビルマ大使館を建てるときも箱根土地から土地を購入する手配は四至本が行った。大使としてやってきたテイ・モンはケンブリッジで学んだ経歴をもつ優秀な民族主義者だった。大東亜共栄の思想に共感して日本にやってきたのだが、いつも四至本八郎を頼りにした。戦争が激しくなって疎開することになったときも、四至本アイと大伴昌司の母子とともに群馬の八潮鉱泉に身を置くことになった。この憂国の士とともに暮らした半年は、大伴に大きな影響を与えたと思われる。
20年7月、戦局悪化でテイ・モンと四至本家に松代の大本営に移動するよう命令が出された。地下壕となっている建物に移ることを大伴少年は期待を膨らませていた。
だが、まもなく敗戦。地下暮らしは実現しなかった。大伴は後に「一度だけ、地下壕という場所に入ってみたかったな」と繰り返し母に語っている。
終戦から1ヶ月経たないうちに、MPがやって来てテイ・モンは連行された。本国へ強制送還するためだ。テイ・モンを乗せて走り去るジープの後ろ影を、大伴はずっと見送っていた。
テイ・モンは20年の秋にビルマへ連れ戻される。ビルマの港に着くという前夜、テイ・モンは死んだ。詳細は不明だ。自殺したという説もあるが、殺されたにちがいないと四至本アイは考えている。
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