セネカと中野孝次
今頃になって中野孝次の本に惹かれている。
この人の文章は切れ味がいいし、ベストセラーもいくつかあるので、折にふれて読んできたが、昨年末あたりから図書館で数冊借りては少しずつ読んでいる。
なぜかというと、この人の老年に対する考え方が実に清々しいからだ。しかも、「古典」というものに精通してきちんと自分の「教養」にしているからだ。
彼の文章はけっして難しくない。衒学的なことがない。後になって知ったが、中野は藤沢周平のファンだと知って、なおさら文体に親しみをもつようになった。
その彼の最後のエッセーが、岩波書店の『セネカ現代人への手紙』だ。2004年春の発行である。前年に同書店から『ローマの哲人 セネカの言葉』を出して続けて書いたものだ。最初の作品で紹介したセネカの「ルキリウスへの手紙」が短い形でしか表せなかったのが遺憾として、それを補うために書いたのが本書だ。この当時、「ルキリウスへの手紙」の邦訳はなく中野は個人的にドイツ語版から少しずつ訳して、注釈を加えたものが、本書に発展したわけだ。
たまたま、この本のあとがきで編集者の名前を見て驚いた。私の「冬のソナタを考える」を作ってくれた人の名前が出ていたのだ。さっそく電話して、この本と中野について聞いた。
本書は中野の最後の作品だということだ。この本を書いている途中から癌が発見され闘病を続けることになる。これを作り上げて、中野は逝ったことになる。そういう状況にあって、中野がセネカの言葉から人生を学びとることはけっして空論でなく、まさに人生の真実を探し当てて、後生の私たちに贈り物にしてくれている。
食道ガンが見つかったときに中野はショックを受けるが、すぐにセネカの言葉を思い出す。
《運命が何をもたらすか、はかりしれない。人間に起こることは君の身にも起こると、つねに覚悟しておけ。それが、何であれいざそのものが来たときに狼狽せず落ち着いて対処できる唯一の道だ。我が身といえども君の権能下にはなく、自然に属する。・・》
中野はセネカという古典を実践してゆく。これほどまでに支えとなったセネカとは何かということに興味をもって、この『セネカ現代人への手紙』を読む。
正しい読書という章でまずガツンとやられる。セネカは多読を戒めているのだ。たくさんの本を読むということは読者自身が内に不安定なものをかかえているからだとセネカは喝破する。《どこにでもいることは、どこにもいないということだからね。生涯を旅先で過ごす人は、旅先での知り合いは大勢できるだろうが、真の友人は一人も得られない。(略)多くのものをちょっとずつ試してみようとするのは、甘やかされた胃袋のやりかたなんでね。いろんな種類の互いに一つになりにくいものが一つに混ぜ合わされたら、体の害になるだけだ。》
私のような乱読者には耳に痛い言葉だ。つい仕事がら、たくさんの本を読むことを自分に許してきたが、セネカの前ではなんのいい訳もできない。「どこにでもいることは、どこにもいない」これは、当分私の座右の銘になるだろう。
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