天でまた会えるから
今はなき居酒屋「たつみ」の人気者だった女将のケイコさんは、まだご主人を失くした悲しみから立ち上がることができないでいる。
やっとの思いで彼女の消息をつかんだ常連客であるわれわれとしては一度会いたいと伝えても、まだそういう気になれないという返事ばかり。心情は理解できるが、なんとなく釈然としない。店が繁盛していた頃、あんなに心安く打ち解けていた仲なのにみずくさいじゃないかという思いがある。さらに、打ちひしがれた彼女を励ましてあげたいと思ってもいるのだが、頑なに心を閉じている。
渡辺一夫が恩師について書いた「わが碧眼の師」というエッセーを読んだ。
聖マリア会の修道士であったアンリ・ベルクロード神父は暁星中学でフランス語の教師として渡辺少年の前に現れた。以後、一高でも東大でも渡辺は教えてもらうことになる。神父は明治41年に来日しおよそ半世紀にわたり司祭として教育者として日本に尽くした人物だ。驕らずいつも謙虚であり続けた師の思い出を、渡辺は(珍しく)熱く語っている。
師が亡くなった後、その思い出を語り合うために母校を渡辺が訪れた。ベルクロード神父の同僚たちと会食しているとき、渡辺は校舎の壁に卒業生の名前を刻んだ銅板でも掲げて感謝の意を表したいと提案した。すると、老いたグッドレーベン先生が、指を天に向けて、こういった。
「皆また天で会えるのですから・・・・・・」
そうか。今、ここで女将さんと無理をして会うこともないのか。いずれ、私たちは”天で会える”のだから。
この話だけを女将さんにそっと教えてあげよう。
〈ご主人を失った悲痛はとてつもなく深いものでしょう。でもこう考えてください。
いずれまた天で会えるのですから。〉
渡辺一夫はエッセーの結びで次のように記している。
「銅板などという有形なものを越えたものを信じられることが大切なのである。」
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