空の上から
日曜日だが、本日が初出勤となる。午後からナレーション録りがある。年末に編集していた「東大物性研50年」のポストープロが607スタジオで行われるのだ。昼遅い電車に乗った。昨日と違って暖かく車内は温室になっている。車窓から見る相模野はすこしガスがかかったようにぼんやりして大山も丹沢も見えない。真っ白な富士も輪郭がぼやけている。
昨夕の出来事を考えた。屋上から近所の家族の団欒を覗いていたことだ。夕暮れに孫たちが走って帰ってきて、祖母が玄関で迎える光景を上から私は見ていた。
下の人たちはまったく私に気づいていない。平場であれば、見られていることに気配を感じるものだが、頭上からの視線というのは埒外になるのだろう。私の見ている光景はまったく作為のない純粋な行為に思われた。
この視線は神様のと言うより幽体のそれのように思えた。臨死体験をすると人は肉体を離脱して幽体になるといわれる。その幽体だ。瀕死の状態で手術を受けている自分を、その頭上から見ている自分。幽体化した存在が捉える光景とは、昨夕のようなものではないだろうか。
さだまさしの歌「精霊流し」にこういう場面がある。若くして死んだ人の恋人や母親たちが初盆の精霊流しの準備をしている光景を、霊が見ている。
去年のあなたの 想い出が
テープレコーダから こぼれています
あなたのために お友達も
集まってくれました
二人でこさえた お揃いの
浴衣(ユカタ)も今夜は 一人で着ます
線香花火が 見えますか
空の上から
この歌の場合、まなざしの主体は死者の霊だが、生きていても同じように「空の上から」見ていることがあるのではないだろうか。私の昨夜の体験で言うとそれはぼんやり見る行為であった。何かを見ようとして見ていたのではない。見ている私もそこに私が在るかどうかはっきりしていない。実際に見たことなのか、それとも子どもらの声に触発されて私が想像(ビジュアライズ)して出来上がった表象なのだろうか。
(注:沈黙のしくん、こういう表象という表現はあるだろうか、教えて)
重要なことは、その見る行為ではなく、見たことがその主体にどんな意味をもたらしていることか。
私は昨日以来、このまなざしをいろいろ使っている。使いはじめている。
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