書き続けること
大江健三郎の『日本現代のユマニスト渡辺一夫を読む』(岩波書店)を読む。20年前に読んだ本だが、娘が卒論を書くために読みたいといったのを契機に、再読してみた。
渡辺一夫という人は明るい面が世上に出たが暗い面も合わせもっていたと、大江は感じている。繊細な文化を作り出す人間をよしとする一方、暗い誘惑に身を焼いていたと、大江は渡辺のひととなりをとらえていた。それは、ラブレーのグロテスクの暗い面を学んだ後に培ったものでなく、生来内奥に秘めたものであるというのが、大江の見解。
その渡辺がよく引用したセナンクールの言葉。「人間は滅ぶ得るものだ。しかし抵抗しながら滅びようではないか?」
ここには、人間を肯定してその戦いをよしとする、というのが第1の見方かもしれない。が、この警句には、人間は滅ぶものという、深い虚無が横たわっていることを、見逃せない。
渡辺一夫もまた「生き延びる」ということを生涯見つめた人であった。状況的苦難であれば、教え子を戦争に送り出した学徒出陣を体験したこと、親友のH・ノーマンの自裁、など幾多もあったろう。だが、暗い虚無の面は、外部に由来するのでなく生来の渡辺にあったものだ。
大江が高校時代に読んだ渡辺の『ルネサンス断章』が、大江の生涯の師という位置を与える。その大江もまた自分の中にある暗いものと感応したのではないだろうか。
10年ほど前から、大江は中年の危機を語ることが繁くなった。そして、この数年の間に大江は武満徹、安江良介、伊丹十三の死に出会う。武満の早い死、安江の苦難に満ちた病死、もあったが、伊丹の自裁はことのほか大きな衝撃を大江に与えたことは間違いない。ここ数年、晩期に発表してきた大江作品はすべて「伊丹問題」に連なっている。
この死を通して、大江は内なる暗い面に再び向かわざるをえなかった。
苦しい日々があっただろう。その闇夜を走り続けて、近年の境地についに立ったのが”大江”だと私は思う。暗い誘惑と戦った末の『取替え子』『憂い顔の童子』『さよなら、私の本よ』の後期3部作は、サタンの誘惑を撥ね退けたキリストの逸話を彷彿とさせる。
――そして、大江を支えたものは、「書き続けること」だったと、私は思う。
とここまで。東海道線の車中で書いてきたが、終点東京で乗り換えて水道橋から神田神保町まで出る。正月の古書店街は半開きの状態だが、ぽつぽつ開いた店を訪ね歩く。新刊書店や古書店をのぞいて6冊購入。『禅キリスト教の誕生』、『脳力のレッスン』『世界臨時増刊 沖縄戦と集団自決』の3冊は新刊。『風浪の旅』(檀一雄)、『メランコリーの水脈』(三浦雅士)、『俳句の評釈』(水原秋桜子)の3冊は古書である。その中の『メランコリーの水脈』(福武書店、700円)を早速手に取り、大磯までの帰りの車中で読む。
60年代の文学の特徴にメランコリーがあると見る三浦は高橋和巳ら11人の作家を取り上げていて、そのなかに大江がある。大江の小説は死に満ちていると三浦は指摘する。大江文学をエッセーと小説を分けて評価することが多いが、大江の場合は等価に見て、その中の死の問題に着目すべきと論を張る。うすうす私も感じていたことだけに、この説に出会ってギクリとする。
《大江健三郎は無力感を強めるために無力感と闘っているのである。むろん、これこそこの時代の闘い方であるというほかない。》
この本から得た見方で、再度、『渡辺一夫を読む』を読んでみよう。
帰ってゆく先に、満天の星の下、紅葉山の我が家がある。秋桜子が推薦する句を、ここに付けておきたい。
寝にかへる家ははるけし暖炉燃ゆ 春一
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