センチメンタル・ノスタルジー
還暦。いよいよ「老い」のとば口に立つことになる。これまで4回年男を経験したが、2008年の年男ほど疎ましく思えることはない。どうやって老いをむかえるかが分からない。じたばたしている。
『美しい老年のために』を読んだ。著者の中野孝次は、定年後の生き方とは”時を充実させる老い”を目指すべきものとしている。
まず趣味をもてと、足腰をきたえ熱中しろと説く。山歩きか碁でもうてと言うのだ。
次に、定年帰農もいいぞと励ます。自然と触れ合うことが大切だという。但し、これはパートナーの理解を得なくてはならないと、釘をさしている。
近い国への旅も悪くは無いと、中野は韓国や台湾への旅行を勧めるなど、けっして上滑りしない実用的な手法を取り上げていることには共感する。だが心動かない。
老年とは何もしなくてもいい時間をもっていることだから、逆に一番やりたいことに時間を割くべきと、「ほんとうの趣味をもつ」ことを中野は最後に説く。ほんとうの趣味とは、それをせずに生涯の充実感が得られないもの。中野は、読書とか俳句とかインドアよりも百名山を登るとか外国を旅することとかアウトドアのほうがいいと書いている。
この本は中野孝次が70代半ばで書いているから、人生の機微をそれなりに体験しての戒めというかアドバイスを書いているのであろう。だが、今の私にはどうも響かない。中野孝次が考えたような老いの道とは、どうも違うらしい。セネカや西行を参照しても、それは「教養」の域を出ない。世代の差なのか。まず、「美しい老年」を目指すということに躓いてしまう。「めそめそぐずぐずの老年」では駄目なのだろうか。
きりっとした生き方、敬われる考えを中野が芯にすえることに、居心地の悪さを私は感じる。思い切り叙情的であったら駄目だろうか。思い入れ、感傷、情調に浸っているような老年ではいけないのだろうか。
抒情化は落とし穴だという恐ろしい説を目にした。チェコの亡命作家ミラン・クンデラは「恐怖政治の抒情化」ということを書いている。スターリン以降のロシアの全体主義化を覆ったのは抒情化という大波だったというのだ。乾いた目でなく湿った目(抒情化)があのソ連を作り上げたという。
抒情的であることは自分をあまやかすことになる。とすれば、その抒情性をもって老年を乗り切ろうとすることは、将来に破綻が見えているではないかと、このクンデラの説は私を突き上げてくるのだが、それでもと私は言い張りたい気がしている。
浪曲のように、たっぷりと人情と抒情で世界を覆ってみたい。開き直って「センチメンタルノスタルジー」の世界を目指すのはいかがだろう。周りからは顰蹙をかうかもしれないが気にしないでいくか。
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