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旅立った二人へ(最終バージョン)

旅立った二人へ

 2007年が終わろうとしている。今年もまた、私にとって大切な幾人かの知人友人がこの世を去った。私は以前このブログで書いた記事を読み返して、今年亡くなったことを知った二人の人物と明日香村との奇しき縁を思った。河合隼雄と金井清昌の二人だ。
  *                               *

河合隼雄と明日香村

2004年に『国宝高松塚古墳壁画』(文化庁)という本が出版され、巻頭に河合隼雄文化庁長官が「三十年経ても壁画は大きな損傷あるいは褪色もなく保存されております」と序言を書いた。ところが実際には明日香村にある高松塚の壁画にカビが生えて褪色も起こっていた。週刊誌などによって追求されたが、文化庁関係者はこの事実についての釈明も公表もないまま密かに修復を行った。地球温暖化による石室内の温度上昇という大雑把な理由で文化庁は幕引きを図ろうとして、逆に批判を浴びることになった。考古学の泰斗網干善教はこう批判している。
「文化庁の最高責任者である文化庁長官は、せめて明日香村に来て、村民に対して説明をするべきではないか。しかし文化庁は、長官は心理学者で考古学は素人だから、説明はできないという。それで許される問題でしょうか。」(『高松塚への道』)

河合長官への風当たりはきついものとなった。本来は文化庁の内部の縦割り行政が長年にわたって犯したミスがこの不祥事を招いたのだが、河合が責任追及の矢面に立つことになる。河合は給与の一部を返納し、さらに、現地へお詫びに出かける。
 傍で見ていて、河合さんの体調が思わしくないことを私は危ぶんでいた。相当無理をしているなあと心配していた。当時、私は河合さんの出演する番組を企画していて、折々長官室を訪ねていたのだ。

そして、2006年8月9日に、河合さんは明日香村の現地に入ってお詫びを行う。其の時のニュース映像を見ると脂汗を河合さんは流している。政治家としての苦渋と健康上の不調が明らかに、河合さんの心身を追い詰めていた。それから10日も経たない、8月17日。京都の河合さんの私設秘書から「河合先生が倒れた」という連絡が入った。西大寺の自宅で脳梗塞を発症したのだ。すぐに手術が行われたが、意識をなくした。1年にわたって植物のような状態が続く。

 河合さんは長官職を一期3年で終える予定であったが、首相から二期もと強く要請され引き受けざるをえなかった。辞めたがっていることは傍目からも十分うかがえた。健康も然りながら、政治家としての気苦労に河合さんはほとほと疲れていた。そして、明日香村の古墳をめぐって起きたトラブルが、結果として河合さんを追い詰め、その命を縮めていった。

    *                             *

キトラ古墳の壁画が初めて確認されたのは1983(昭和58)年。地元の有志でつくる飛鳥古京顕彰会とNHKの共同調査で石室に挿入されたファイバースコープが「Q」の字のような形をした玄武(亀)をとらえた――。
 
 金井清昌と明日香村

 金井清昌が去年の1月3日に死去したということを私は最近になって知ることになるのだが、その彼の死から半年も経たない2006年5月、奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡)の極彩色壁画「白虎(びゃっこ)」が一般公開され話題になっている。会場の奈良文化財研究所飛鳥資料館には、日に3000以上の考古学ファンが訪れ賑わっているというニュースを聞くと複雑な思いに駆られる。1998年のとき、私や金井がファイバーカメラでこの古墳を調査するときに悩み苦しんだことはいったい何だったのだろうと思ってしまうのだ。

キトラ古墳とは、奈良県明日香村大字阿部山にある直径約14メートルの古墳で、7世 紀末から8世紀初め頃に作られたと推測される。高松塚古墳が内部調査されるまで注目されることもなく、長く地中に埋もれていた。
私の大先輩にあたる堀田謹吾チーフディレクターは、70年代の高松塚のブームが一段落したとき、明日香村で他にも古墳はないのだろうかと改めてリサーチをした。そしてキトラと地元で呼ばれる古墳の情報を得る。一説によればキトラは亀虎という意味で古墳にそれらが描かれていることからその名前が付けられたという伝説があったのだ。もし古墳の中に図像を発見すれば高松塚に次ぐ大発見となるかもしれない。予備調査を繰り返しておおよその内部の寸法を測った。その折、盗掘坑を発見する。この一度開けられた小さな穴を利用すれば、古墳の破壊を最小に止めることができる。

堀田は発掘を役場に申請していたが、そこは私有地であり文化風致地区であったので、おいそれと発掘許可が下りなかったのだ。そこで、現状を破壊することがない特殊カメラ使用を考えた。胃カメラのような遠隔操作可能の特殊カメラを開発する必要があった。その技術的アドバイスを堀田に与えたのは、技術本部にいた金井清昌技師だ。彼は技術屋らしくない好奇心の強い人物で、盗掘坑の利用法もカメラの延長システムも考案する。実際のカメラ開発は金井と彼の古巣でもあったNHK技術研究所の共同研究による。
 
そして1983年、ファイバースコープによる石室内調査が行なわれた。当時は誰も装飾古墳が眠っているとは思っていないので、何の横槍も入らず問題もなく飛鳥古京顕彰会のメンバーとNHKスタッフだけで自由に調査ができた。そして古墳正面の玄武の壁画を見つけた。玄武(亀)の形はQの字に似ていた。さらに内部を見ようと、カメラを左右の壁に向けようとした瞬間、ファイバースコープの先端が壊れた。やむなくカメラを引き出すことになるが、カメラが壊れる直前、天井を捉えた映像に星座のようなものがちらっと光るのを金井は見ている。金井以外誰もそれを認知していないので、錯覚じゃないかとそのときはされた。
以来、金井は再度ファイバーカメラを挿入したいと願うようになった。古墳内部を克明に撮り、自分の見たものが錯覚じゃないということを証明したいと、キトラ再調査は金井の悲願となった。

玄武だけの撮影でしかなかったが、それでも装飾壁画発見はニュースとなって全国に流れた。後日、この快挙はNHK特集としてまとめられて放送され、大きな反響を呼んだ。

それから15年後、再度調査が行われる。そのとき、堀田プロデューサーに代わって番組制作担当者に選ばれたのは、私だった。私はそこで金井と初めて会う。

15年目の再調査

キトラ古墳の第1次調査が行われて15年経った。
高松塚の騒動がありマルコ山、キトラと古墳発見が続いた1980年代はそれなりのブームが起きたが、10年も経過すると次第に忘れられていった。明日香村を訪れる人も減少していた。2回目の調査の話は1997年秋に、地元から起こってきた。
 村の関係者はもう一度明日香村に活力を与えるような出来事を探した。地道な発掘調査や考古学的研究は継続していたが、もっと耳目を引くイベントはないかと考えた。

 一度調査したとはいえ、部分でしかなかったキトラ古墳は、その意味では格好のテーマであった。玄武(亀)の壁画が見つかっていたのだから、他の青龍、白虎、朱雀が発見される可能性はあると見たのだ。
未完に終わったキトラ調査をしてみることを村は構想し前回に実施したNHKチームに村は調査を打診して来た。
 15年前の主要なメンバーは、金井を除いて退職するか転勤するかで、事実上解体していた。新しくチームを立ち上げなくてはならなかった。実は、金井は半年後に定年退職をひかえていた。もう、再調査は無理だと諦めていた。ところが、再燃したのである。長年待望していた悲願の再調査がついに行われることになった。彼は間に合ったのだ。

私は番組の責任者であるプロデューサーに選出された。歴史は好きだったが古代史番組の経験がない私は金井からレクチャーを受けながら、猛烈に勉強した。特に飛鳥時代、天武、持統天皇時代については詳細に文献を読み込んだ。

その一方、機材の開発にも力を入れた。技術研究所で前回の失敗した器具の性能アップを図りつつ、レンズ、ビデオ装置なども最新のものを駆使した。撮影用のライトも出来るだけ電圧の低いもので撮影できるほど解像度の高いカメラを開発した。これらの技術的アドバイスはすべて金井清昌エンジニアによる。金井は前回にも協力を仰いだ東海大学情報技術センターとも連絡をとり、その援助を取り付けた。画像はそのままで認知できるものでなく緻密な画像解析が必要なのだ。それが出来るのは東海大学情報技術センターしかない。そのセンターと取材チームを結びつけるなどということは金井以外誰も出来ない仕事だった。

 思わぬ事態

実際の作業は、1998年の春が来てからということで、それまで我々は文献資料や関係者に聞き込むなど準備に入った。毎月のように私は明日香村へ行くこととなった。朝8時の新幹線に乗れば、昼過ぎには現地入りが可で、私は精力的にファイバースコープ調査のための情報を集めた。

 15年前の第1回調査は、NHKと飛鳥顕彰会の共同作業だった。そのとき協力してくれた村関係者、アドバイスを与えてくれた学者らにも、私は接触して重要な情報を入手してゆく。いわゆる番組制作の事前リサーチを丹念に行った。私ともう一人のプロデューサーの二人だけで現地に行っての調査だったが、どこからか情報がもれた。

キトラ古墳にNHKが再びカメラを入れるそうだという噂が、奈良にあるマスコミ各社の支局に流れた。前回の調査のように、NHKが技術を提供することによる情報の優先に異議が入った。2回目は各社にも同じ情報を公開するべきではないかという声があがった。対象が文化遺産という公共性の高いものだから情報公開を求めると、管理する村に迫った。

取り扱いに窮した村は、調整は当事者でやってほしいと、私のところへオハチが回ってきた。私は困惑した。

 いろいろ曲折があったが、結果は、マスコミ各社の意見を受け入れて調査することにした。そして、わがチームは全力で調査して大きな成果を得ることになる。玄武以外に青龍、白虎の壁画を見つけ、さらには天井に精密な天文図まで撮影したのだ。画像はすべて各社に生のまま配信した。それはむき出しの画像だ。それをコンピュータで情報処理しないと、精確な情報にはならない。その作業は各社の責任でそれぞれ行うことにした。

発掘調査本番

1998年3月、大和路はまだ寒さが残っていた。
3月3日、調査前々日に奈良県明日香村の現地に入ったときも、劇的な発見が待っているとは思わなかった。7世紀末から8世紀初めに作られたと言われるキトラ古墳。この古墳を再調査する調査団というのが明日香村によって結成され、私たちはそれに技術協力するという形で参加することになった。早々と現地に入り超小型カメラの組み立て点検を終えて、本番に備えた。

3月5日、本番当日。雲が重く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな空模様だった。阿部山の現地のテントには他の報道陣もおおぜい詰め掛けていた。
 古墳探査ポイントは側道より3メートルほどあがった所で、防水テントで覆われている。
探査用カメラを組み立て、8時過ぎ穴をあけることになった。ここは、第1回調査のときにも参加した金井清昌があたる。
内部が固い版築に覆われているためドリルがなかなか入らない。穴をあけるのに2時間かかる。小雨が降り出していた。
11時過ぎ、やっと貫通し小さなどよめきがスタッフの間に起こる。すぐに内部の温度、湿度、炭酸ガスの濃度などが測られた。雨は本降りとなった。気温が急激に下がった。吐く息が白い。
昼過ぎ、いよいよ探査孔にカメラを通す。総勢5名が慎重に操作する。探索の指示は猪熊兼勝調査団団長。その指示に従ってカメラを操作する金井清昌の額に汗がうっすらと浮かんでいる。

昭和58年の調査時、金井は43歳だった。世紀の大発見となるはずだったが、調査中無念なことにカメラが故障した。撮影不能になる直前に金井は古墳の天井に光るものがチラッと見えたと記憶している。他は誰も見ていないので当時は金井の推測は一笑に付された。だが、金井はきっとこの古墳は想像以上に立派な構造と体裁をもっているにちがいないと密かに確信している。
いつか古墳にカメラをきちんと挿入して、自分の目撃したことが本当だったということを立証したいと金井はねらっていた。調査再開に執念を15年にわたって燃やしてきたのだ。

 超小型カメラのアームは2メートルに伸びて、ついに石室内部に入る。床には土砂が入り込んで散乱している様子がモニター画面に浮かび上がる。カメラを持ち上げると正面には亀つまり「玄武」がいた。ここまでは前回も撮影している。ここから先が勝負だと思った矢先、突然カメラに異変が起きた。
 カメラケーブルが断線したようだ。モニター画面の映像がみるみる白く溶けていった。関係者は全員息をのむ。前回と同じポイントでカメラにアクシデントが発生。沈うつな空気が流れる。すぐにカメラは回復するかとあれこれスイッチを操作するが動かない。技術スタッフから回復の見込みはたたないとメッセージが私の元へ届く。金井はいったん中止したほうがいいと助言する。私はこの日の調査は打ち切ることにした。

星座を見つけた

その夜の技術スタッフの努力は涙ぐましいものがあった。ちゃんとした修理道具もないなかピンセットとセロテープだけで13本の極細の電線を繋いで張り替えてゆく。配線の設計図は東京にしかなく、それが保管されている技術研究所にケイタイ電話で問い合わせながらの作業となった。アルミの束ををセロテープで巻いての応急処置したケーブルが上がったのは午後7時を回っていた。夕食も摂らずに必死の作業であった。外は激しい吹き降ろしの雨になっていた。

翌6日雨はすっかりあがった。阿部山の森の中から鶯が聞こえてくる。
作業を再開すると機材は順調に稼動した。どうやら断線箇所の応急補修もうまくいったようだ。ファイバースコープは正面北壁にある玄武にたどりつく。それから、ゆっくり石室全体をまず眺めることにした。左右に縞模様のようなものを確認。レンズをセミ望遠にして焦点を合わせると、白い虎と青い龍が浮かび上がった。彩色の姿は生き生きしている。新発見の「ブツ」だ。思わず手に力が入る。でも、これは序の口にすぎなかった。

天井にカメラが向けられると、そこには華麗な星座が広がっていた。「星宿」である。世界最古といっていい精緻な天文図が現われたのだ。この星座は後の調査によると、大変な情報を保有していることになるが、その時点ではまだ私たちは知らない。が、新しい像を捕まえたことで私たちは興奮していた。翌日の新聞は1面トップでこの天文図発見のニュースを報じた―。


金井の定年

技師の金井清昌はこの発見から3ヵ月後、1998年夏に定年をむかえる。金井にとってはこの発見は技術屋人生の総仕上げとなった。
 定年後、金井は後輩が営んでいる制作会社に身を寄せて、新規事業などを手がけていたが5年前、脳出血で倒れた。回復したが、麻痺は残った。リハビリを続けることになった。
時々思い出したように電話をかけてきた。金井の欠点は、話がもどかしいうえに長いことであった。病気をした後はさらに長くなった。用件に入るまでに10分はかかる。本件に入っても、話が横道にそれる。ついつい、私は邪慳な物言いになっていた。「そんなに言うなよお」といつも金井は私に弁解するような口調になっていた。今、それを思い出すと胸が痛い。
 4年前、私が定年に近づいた頃、金井は私の身の振り方を心配した。気が短くて協調性の薄い私では、第2の就職も難しいのではと、金井の知り合いの仕事口を探してくれたのだ。残念ながら金井の配慮は実を結ぶことはなかったが、私は本当に有難いと心で何度も頭を下げた。
 3年前、私が定年を迎えたとき、すぐ彼は祝福の電話をくれた。不自由な口で、「無事卒業を迎えることができてよかったね」と言ってくれた。

 それから1年ほど経って、最初のキトラ調査を行ったときの堀田チーフディレクターが急死するということがおきた。その訃報を私は金井に伝えたところ、彼は回りをはばかることなく「ホッチャンが死んだ」と大声を上げて泣いた。30年前、手作りでキトラ古墳調査を二人でやったときの苦労がよみがえったのだ。私は慰める言葉をもたなかった。

金井は高崎で病を養っていた。そのうち見舞いに行こうと思いながらずるずると1年以上の久闊となった。便りがないのがいい便りぐらいにしか思わず、そのうちに金井も病から立ち直って現れるだろうぐらいにしか思わなかった。

今年、2007年の秋、韓国のテレビ局から高句麗系遺跡と言われるキトラ古墳の取材をしたいとNHKに連絡が入った。詳細を技師である金井に聞きたいと言う。個人情報の管理が厳しくなったため、現役のプロデューサーたちは金井の連絡先が分からず、私に問い合わせがあった。私は手帳にあった電話番号と住所を伝えた。

 10分後、そのプロデューサーが慌てて伝えてきた。「金井さんは昨年の1月3日に亡くなっていましたよ」
なんと言うことだ。私は恩人の死を1年以上も知らなかったのだ。

 暮れも押し迫って、テレビも新聞も今年亡くなった有名人の追悼番組を放送したり記事を掲げたりしている。だが、今年もたくさんの無名の人たちが旅立っていったのだ。無名といえども、それぞれの仕事を全うして逝かれたはずだ。金井も68歳というやや短い生涯ではあったが、使命を果たして逝った。私は一年遅ればせではあるが、金井清昌のことを、ここでささやかに刻んでおきたい。

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by yamato-y | 2007-12-28 16:51 | Comments(1)
Commented by やいっち at 2007-12-31 14:42 x
富田木歩という人物についての情報をネットで探していて貴サイトに遭遇しました。
実に読み応えのあるブログです。
河合隼雄さんについては、大学生になった頃、ユングに凝っていて、ユングの紹介者としても既に有名だった河合隼雄さんの諸著に親しむようになりました。
悲しいかな、河合隼雄さんの姿を実際に見たのは一度だけ。昨年の夏だったか、神田神保町界隈で擦れ違ったことがあるだけ。
こちらは知っているけれど、先方様は知るはずもなく、黙って見送りました。
もう、その頃には仕事で疲れきっておられたのでしょうか。
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