秘めたもの
大江健三郎『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつつ身まかりつ』は面白い。この10年培ってきた文体と明らかに変わったし、物語も新しい流れが生まれたという気がする。
その作品論はまたの機会に語るとして、ある一節に引かれた。
《マガーシャック教授のブラックボックスは、まさに特殊なコレクションでね、サクラさんに見せていいものと、そうでないものとを、おれは念入りに選別している。》
映画プロデューサーが、大女優の亡き夫の遺品を整理しているということを伝えた会話の一部だ。人は見せたくないものをかかえこんでいるものだ。死後、それを見られたくないという品々はあるものだ。まして、表現することに関わる人間であればさまざまな「禁制品」をブラックボックスに仕舞い込んでいることは十分ある。そういうものが残された場合・・・。
仮に、癌を宣告されたとして、治療に入る前にその品々を処分することは可能であろう。または、ある年齢に達すれば人は徐々にその品物を消してゆく作業を推し進めているものだろう。だが、老いてもいない時期に突然死が襲ったら、その準備もできないまま、品物は宙に浮く。
上野たま子の新著『雑誌記者 向田邦子』を手にして、向田の残したものについて考えた。
上野は、向田の20代から30代にかけて勤めた出版社の同僚だ。その頃、向田は秘めた恋をしていた。その男性のことを知っている数少ない証言者が上野たま子だ。むろん、向田は親友の上野にすら存在を明かしていない。上野も後年になってあのときのあの人がそうだったのだと知ったのだ。そのバラバラに向田が消した断片をつないで、その恋人のエピソードを上野は本書で語っている。その恋は悲劇で終わっていた。
放送作家として独り立ちを始めた向田は周到にこの記憶を消していったので、誰も知らない出来事となった。実弟や実妹ですら知らない。
突然、向田は飛行機事故で急死する。それから10年後、彼女の遺品の中にフシギなものがあることが発見される。茶封筒に入った手紙と日記である。ここに、彼女の若き日の恋が記録されていたのだ。おそらく、すべてを廃棄した上で、残した最後の品物であろう。
その品物の主人公の像が、今回、上野によって語られている。
《細面ではなく、がっしりした顔をしていた。笑うと大きな黄みがかった歯が並んでいた。煙草のせいかと思われた。年齢は私たちとは十歳以上離れているように思われる。》
この上野が会った人物が向田の恋人だった。向田がオリンピックの年、実家を出て一人暮らしを始めるのもその人物との関わりであった。その年の初め、人物は非業の死を遂げていた。この若い日の恋について向田はいっさい口をつぐんだ。
その人物にまつわる品々を向田はいっさい処分したと思われる。ただ面影が彼女の書いたシナリオにこっそり登場していたのだが。それ以外、すべて闇に葬られた。と思われた。
向田は2,3回転居を繰り返している。最後になったのが青山通りに面した表参道のマンションだ。その部屋の「隠し」にその茶封筒が残された。もし、彼女が生きていたら、いつか人の目に触れる前に処分したかもしれない。いや、それまでも処分する機会は何度もあったはずだが、向田はその品物だけは隠しもっていたのである。
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