入れ替え制
映画館入れ替え制は今から15~20年前に始まったらしい。映画館がきれいになってデラックス化しリクライニングのシートなんかも出現した時期じゃないか。たしか、それまでの映画館はトイレの臭気が漂う汚い空間で固い椅子で居心地がさほどよくなかった。
きれいになったのは良かったが、二本だて以上の映画を見てきた者としては一本立てつまり入れ替え制になって損をしたような気分になった。今では一日に二本も映画を見たら疲れるのが先に立つが、子どもの頃は3本でもまだ足りないと思っていたし、学生時代であれば時間がいっぱい余っていた。
一方、まだ二本立てをやっているところもある。早稲田松竹は名画座だが、学生街の映画館にふさわしく二本立て興行を続けている。そう聞くと行きたくなる。目黒シネマもそうだったかな、今夜は週末だからレイト興行になっているかもしれない。
昔は映画館の前まで行って開始時間が合わないと時間をほかでつぶすなんてことはなかった。映画の途中から入って配役もストーリーも掴めなくてもおいおい分かればいい、二回見れば分かるだろうぐらいのアバウトさで鑑賞したものだ。英語の勉強と称して二回見る友達もいた。最初は字幕を読んで、二回目は出来るだけ見ないで理解して、というのを繰り返すと英語が上達するという話を聞かされて、私も「ある愛の詩」でやったことがあるがさっぱりだった。
マンガを育てたのは団塊世代だが、かと言って今彼ら老人を主人公にしたマンガを描いたところで売れるわけではなく、という文章を目にしてぎょっとした。「老人とは俺のことかと団塊言い」だ。でも老人となると現役から煙たがられるのも当然だわな。さっさと現場から出ていってくれと思われているのだろうな。入れ替え制です、次のお客さんのために席を空けてくださいと声がかかっているのだろう。昔はよかった、一度入場したら最終回までいることが出来たからと懐かしんでも時代は違うのだ。
ヌーベルバーグ華やかりし頃、小津安二郎はもう古いと若手の監督たち(大島渚ら)から批判されていた。その頃開かれた松竹監督会の新年会で、小津は上座から降りてきて下座にいた若い吉田喜重の前にどっかと腰を下ろして黙ったまま杯を重ねた。二時間近くもそうしていたという。そして最後につぶやいた言葉。「映画監督は、橋の下でこもをかぶって客を引く女郎と同じだ」
別のところで「豆腐屋には豆腐しか作れない」という言葉を小津は残している。若手の批評に対して小津なりの返事だろうが、苦しい。開き直りと見られても仕方がない弁明だ。
小津の前に新しい波が押し寄せていた。ヌーベルバーグ。
ちょっと待てよ。波はエネルギーであって、もの(媒質)そのものが動いているわけではないという当たり前のことをあらためて思い出す。新しい波が来ようと水面だけが動いているだけでそこにある水は入れ替えなし、ということにならないか。大島や篠田、吉田らが飛んだり跳ねたりしたが、波は次から次へと来たものの小津は今もどっかとそこにあったりして。と都合よく考えたりして。来年、私は小津が死んだ年60になる。
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