ふたりの編集長
目白の椿山荘で、少年サンデー、マガジンの元編集長二人と会って取材をした。
取材地は音羽(マガジンを発行していた講談社のある場所)や神保町(小学館のある地)からほど近いところにあるから、そこで会いたいとサンデーの編集長の要望だった。
サンデー、マガジンは少年週刊誌の草分けであり老舗だ。1959年に創刊され、発売されたのも同じ3月。ずっとライバルでやってきた。その両誌の編集長が相並ぶという。どんな話をしてくれるのだろう。ライバル意識はどうなのだろう。好奇心半分で出向いた。
1959年当時、週刊誌が次次に創刊された。テレビ時代が始まっていた。テレビの速報性に対応するうえでも少年誌は月刊から週刊へ向かうということは必然だった。小学館、講談社とも同じ時期に社主がそう感じて隠密裏に準備した。若干、サンデーのほうが動きが早く、マンガ家をあらかじめ押さえた。マガジンが動いたときにはめぼしい作家はほとんどサンデーに囲われていた。
いつ発売するか値段をいくらにするか、情報戦があった。結局、3月17日という同じ日になった。値段はサンデー30円、マガジンは付録付きで40円となった。最初の10年は熾烈な戦いがあった。漫画家の引き抜き、企画の競争があった。発行部数サンデー50万、マガジン32万と少しサンデーがリードした。ギャグのサンデー、ストーリーのマガジンといわれるのは、「おそ松くん」がサンデーから出て、「巨人の星」「あしたのジョー」がマガジンから出た頃からだ。怪獣ブームをいち早くとりこんだマガジンが一気に発売数を100万まで増やし逆転する。大伴昌司が活躍はじめた頃だ。
70年代半ば過ぎ、マガジン、サンデーが低迷しているとき、新興勢力が現れた。少年ジャンプである。後発だから有名な漫画家をかかえていない。先行2誌は高をくくっていた。ところがジャンプは不利な条件を逆手にとった。新人登用、育成で乗り切ることにしたのだ。これが当たりぐいぐい売り上げを伸ばしてゆく。
意外にもサンデー、マガジンの二人の編集長は仲がいい。ライバルとはいえ、同じ辛苦を味わってきた仲という親近感は大きい。実は、資本的にいえばサンデーの小学館とジャンプの集英社は親戚関係にあたるのだが、サンデーの編集部はジャンプよりマガジンに親しさを感じている。一時、マガジンがジャンプの売り上げに迫ったとき、サンデーはマガジンがんばれと応援したんですよとサンデー元編集長は告白する。二人とも編集長は卒業して、現在はそれぞれの社の重役になっている。
2時間たっぷり話を聞いた。ディレクターもそうだが編集者も話し好きだ。サービス精神も旺盛。つい、眉につばしたくなる話もちらほら。
おかしかったのはマンガ編集者のコンプレックスは幼年期のSF作家とよく似ていたということだ。社でいちばん稼いでいるのに、あいつらはどうせマンガなんだからという視線をたえず感じていたと、両編集長は口をそろえる。この「ヒガミ」はどこかで見覚えがあると思ったら、そうだ60年代のSF作家たちだった。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング