鉄橋を渡ると
夕暮れの相模川大橋を渡る。空が澄んでいれば進行方向に富士山が見えるはずだが、今夕は見えない。いつもこの橋を渡るたびに、ああ帰ってきた、と思う。さがみ野は夕もやのなかにあった。
♪鉄橋を渡るとキミの家が見える
という歌が今から30年も前に流行ったことがあった。
大磯の家にもどって吉野弘の詩集を手にとり、心を奪われたままだ。どうして、この人は他者との関係においてこれほど優しいのだろうか。「夕焼け」も「Iwas born」もそうだ。
今日、気になって脳中を占めたままの詩、「生命は」。
生命は 自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい
花もめしべとおしべが揃っているだけでは 不充分で 虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は その中に欠如を抱き それを他者から満たしてもらうのだ
(略)
私も あるとき 誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき 私のための風だったかもしれない
いつのまにか、知らないうちに私が誰かの役にたっていることがあるかもしれない、と吉野弘は歌う。たしかに、吉野さんのような善意の人であればそういうこともあろう。
天邪鬼な私は、逆のことのほうが多いのではと考えてしまう。知らないうちに誰かを傷つけることをしているかもしれない、と。そんなふうにして生命の欠如を満たすという皮肉な巡り合わせということもあるのではないか。
30年近く前に、吉野さんとご一緒したときに書いていただいた書が私の部屋にある。
「杉あまた細身に若し
垂直を
空につらぬき 一山となす」
何回も読み下しながら、吉野さんの誠実な生き方を思い首を垂れる。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング