大磯暮らし
湘南大磯に住んで十年になる。住み始めて1月足らずで脳出血で倒れた。およそ2年にわたりリハビリ生活となった。そんなつもりではなかったが、海と山のある暮らしは私にとってよかった。人生論的に言えば、「林住期」となるか。
私の住むモミジ山は海抜30メートルほどの丘のような里山だ。近所には画家のカヤマ・マタゾーさんのアトリエやムラカミ・ハルキさんの家がある。山から下りる道は二つ。車が通る舗装道路と歩いて降りる近道だ。私は山道が好きでよく歩く。近道を使うと駅まで10分で行く。途中人家がなくケヤキやクヌギ、ナラの雑木林が続く。降りきったところに、かつて家が建っていた空き地があって、そこにポツンと古井戸が残されている。中は埋め戻されているのだが、夜一人でそこを通ると、「貞子」が現われそうで怖い。恐怖で心臓が痛くなる。私は無類の怖がりなのだ。
にもかかわらず夜の森(特に冬の森)を歩いて帰るのが好きで、ドキドキしながら月光で明るい夜の森を抜けて家に向かうことになる。おまけに井戸から5メートル先に古墳の横穴がある。古代人の墓ということで、いつも黒い口をぽかりと開けている。なぜ、こんな所に作ったのか、
残念。
カヤマさんのアトリエの辺りを散歩していると、晴れていても長靴を履いた品の良さそうな白髪の老人によく会う。画集の中にある紹介写真で見たカヤマさんに似ていたので、「先生、いつまでもお元気でがんばってください」と声をかけると、「どうも、有難う」と先生は応えた。以来会う度にあいさつを交わしていた。
一昨年、カヤマ先生は文化勲章を受章し名声はさらに高まった。アトリエには深夜遅くまで灯がともるようになった。一度、あの部屋で作品を拝見したいものだと密かに憧れた。昨年先生は急死した。76歳だった。
ところが、長靴を履いた老人はその後も山道で会う。どういうことだろうと訝しく思って隣人に尋ねると、「えーっ あの人はリタイヤしたM爺さんだよ。もっぱら孫の世話をしてる」と言うではないか。
あの野郎と思っても悪いのはこっちだ。彼が名乗ったわけではない。こちらが勝手に勘違いしたのだから。でも、あの態度はなんだ。いかにも風流を解するような風情で、小川をながめたり雑草を摘んだりしているのはなんだ。そればかりか鷹揚に「ありがとう」とはなんだ。大磯でよく見る旧華族のような振る舞いで。そういう思わせぶりな態度をとるからこちらも間違えるのだと、怒ってみても詮無い。ばかりか、自分の間抜けさ加減に愛想が尽きる。
あの爺さん、今も山中をふらふら歩いている。
山鳥の 影追いやすき 冬の森
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