退役の悲しみ
私がいた古巣が騒がしい。昨年来の混乱はいっこうに止まることがない。組織そのもののレゾンデートル(存在理由)が問われている。
退職したから、悲しくない関係ないといえば嘘になる。今回の出来事の原因は私の現役時代に起こっていたわけだから、責任の一端に連なっていることにもなるだろう。視聴者や後輩に対し申しわけないし、口惜しい。
放送は文化だと歯をくいしばって、厳しい予算と苛酷な状況の中で番組を作ってきた先輩や仲間の顔を思い浮かべると、悲しみはいや増す。
私が入社した1970年代と現在では、社会が大きく変わり倫理も大きく変化した。価値観も180度といっていいほど違ってきている。当時、常識とされたことが今では不当不法のことのように思われることも多々ある。
かつて巨匠と言われた人たちは豪傑伝説をもっていた。あるディレクターは取材用に駱駝を購入したとか、あるカメラマンは当事者に知られずこっそり撮ったとか、伝説の枚挙に暇がない。それもこれもいい番組ができれば感動を与えることができれば、結果オーライ、ということであった。
そしてこの伝説は現場では英雄的に語られ、後輩は憧れの目で聞き入ったものだ。そうやって積み上げてきたキャリアと社会の厳しい目との乖離が、この数年激しくなった。
むろん、今問われている不正はいつの時代も変わらない不正であって、弁解の余地はない。
制作者である私たちはどうやれば視聴者の信頼を再び取り戻すことを、模索できるのだろうか。陥っているニヒルな深い穴から、どうやって這い上がることができるのだろうか。 職場の隅で通勤電車の中で、私は沈思する。どんなに辛くとも目をそむけないで沈思する。
青鳩の声とどかずに時雨かな
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