秋彼岸
日曜の夕暮れ、「秋彼岸」という小林勇の文章を酒を飲みながら読む。
小林の文章は日曜の夕方に読むにかぎる。それに相応しい滋味がある。この人のエッセーは10余年前に脳出血を体験して以来、私のこのみと合うようになった。鯨のベーコンをつまみにエビスの黒ビールを飲みながら、「小林勇文集」を読んでいる。
小林は岩波書店の編集者として出発し最後には社長となった人物で、現役の頃には幸田露伴や三木清とも親交のあった人だ。戦時中、敗戦直前に治安維持法違反の容疑で検挙され、終戦は横浜の警察署で迎えた、横浜事件の被害者でもある。そういう経歴、三木清との交流と聞くと左翼のようにみえるが、おそらく彼は保守主義者だったと思う。
小林勇が獄中にあったときに自分を戒めたことが3つある。早くかえりたいと思わない。自分を卑しくしない。健康に気をつける。どこにいても同じだという平常心を保ち続けたのだ。彼が釈放されたのは戦争が終わった8月28日のことだった。
この人が鎌倉に住んだこと、一男一女を得たこと、露伴に可愛がられたこと、などを私は真似したことが多い。大磯を選んだのはそのせいだ。一男一女は結果として同じとなった。この人は頑固親父でけっして子供に甘くなかったが、子煩悩であったことはエッセーからも読み取れる。露伴の晩年に彼はぴたりと寄り添う。『蝸牛庵訪問記』を読むと、露伴が「イサム、イサム」と可愛がったことが伝わってくる。私もノーベル賞の先生とそういう関係を築きたいと願ったことがあった。が、かの先生はそういうセンチメンタルをもっとも嫌う人であったので、これは実現できていない。
さて、秋彼岸は高見順のことを書いている。永井荷風が高見のことを軽蔑した文章を表したことがあって、小林はそれは誤解だと知っていた。そこで小林は高見にそれについて書かないかと原稿を依頼したところ、高見は「母が哀れで、母が生きているうちは書けない」といって断った。が、やがて高見は癌となり結局書かずじまいで終わったと、小林は書いている。
小林が岩波の社長の頃、安江良介は「世界」の編集者であった。美濃部都政に参加したため一旦岩波を辞めた経歴を安江はもつ。その後復帰するとき、小林は難色を示したらしい。
安江良介さんが岩波の社長になった頃、私は「シリーズ・授業」という番組に出演してもらったことがある。それを契機に私は安江さんと親しくなった。
その安江さんは終生小林勇のことを話題にするのを避けた。私が一度小林の遺族に会いたいと伝えたところ、そのうちに機会を作るよと言っていたが、やがて安江さん自身難病を患うこととなり、その機会を私は失してしまった。
話はとりとめもないものになったが、本日、家人が留守なので海へ泳ぎに行こうと思った。50歳を越えてから、私が泳ぎに行くことを家人はつとに嫌がるようになった。だから、留守で誰もいないうちに海水浴へ出かけようと思ったが、庭の草むしりをしている間に疲れて、浜へ出る気がなくなったのだ。
小林は60歳まで毎年、鎌倉の浜で10月まで泳いだと記している。そのデンに習おうと思いつつ、本日果たせず、代わりに彼のエッセーを読んだというわけだ。私は彼の文章が真率で好きだ、が、松岡正剛は下手糞と書いている。
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