夕焼けチャイムを聞きながら
暑い一日が暮れようとしている。久しぶりにどこへも行かず大磯の家にいる。降るような蝉の鳴き声に、カナカナが混じり始めたと思ったら夕焼けチャイムが流れた。5時になったのだ。夏のチャイムは暑さを追い払うようで嫌いではない。
大磯に家をもつ村上春樹は他に不満はないがこのチャイムだけは許せないと、どこかで書いていた。そんなに毛嫌いしなくてもチャイムがはっきり聞こえるほど他の騒音が少ないと考えられないだろうか。
風がぬける廊下に寝そべって幸田文と河合隼雄を交互に読んだ。
幸田の小説というのは独特の難解さがある。独りよがりの表現が多い。彼女の棲息するクリマとかコードとかに通じていないと理解できない、というか何を表現しているのかに到達できなくなる怖さがある。それでいて、構築された物語の緊迫感だけは直感で伝わって来たりもする。「鳩」と「段」という2つの短編を読んだ。「鳩」はまさに晦渋な文章だった。「段」は父露伴が七部集注釈を仕上げたときの体験を書いている。書き上げたお祝いを自宅でしようと馳走の用意に走る。酒の使いにやらせた娘の帰りが遅い。先にやるかと始めたところへ娘が戻って来て、酒のメチールを検査したところ危険だということが分かる。危うく難を逃れたという話だ。戦後の困窮期に起きた実話だろう。
この小説の末尾に、幸田は自分の仕切りの悪さに老いを感じる場面がある。その表現。
《私はどかんと大幅な段を墜ちて、そこから歪みえない老化がはじまっているのである。》
確実に年をとったと思う瞬間を、段を墜ちると幸田文はとらえている。最近、私にもそういう段を感じることが増えた。
次に読んだ河合のテーマは時の流れというものだ。児童文学を例にとって流れる時間とともに時間は循環もするということを説いている。川の水はどんどん流れてゆくが、帰って来たりすることもある。海に行った水が蒸発して雲になり、雨となって山間部に降り注いで同じ川に戻って来ることもあるのではないかと河合が語ると、なぜか胸が熱くなる。
今夏逝った、カズオミ、河合隼雄、山口小夜子、らはまた戻ってくる・・。
ひぐらしにさめてはかなき夢なりし 小野房子
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