豊田有恒さん
昨日、豊田有恒さんを取材した。豊田さんはSF作家であるとともにかつて百本以上のアニメのシナリオを書いたアニメライターでもある。
今度、私が作ろうとしている番組「21世紀を夢見た日々」は黎明期のSF作家たちの生き方を見つめることにしている。1963年3月に旗揚げした日本SF作家クラブは20人で船出した。星新一、小松左京、筒井康隆、光瀬龍、眉村卓、石川喬司、半村良、平井和正といった作家たち、福島正実SFマガジン編集長、大伴昌司や手塚治虫たちが加わると言う、今考えれば錚々たる集団だ。そこで平井と並んで一番若い作家の一人が豊田有恒だった。26歳である。
豊田は前橋の医者一家に生まれたこともあって、慶応の医学部に進んだ。だがその境遇が嫌で嫌でたまらずついに放校され武蔵大学に入りなおす。そのときにSFコンテストに応募したことから彼のSF人生が始まったのだ。元々理科系の頭脳だからサイエンスの知識は理解しやすい。加えて漫画が好きだったから空想をビジュアルにすることも嫌いではなかったのだ。この才能が手塚に見出されアニメの元祖虫プロダクションにスカウトされ、そこで誕生したばかりのシリーズアニメ「鉄腕アトム」の名作をいくつも生み出すのだ。その後、スーパージェッター、宇宙少年ソランなどアニメ初期の作品を数々手がける。そして1970年代にあの名作「宇宙船艦ヤマト」のSF設定を手がけるのだ。この作品がなければその後のエヴァンゲリオンもガンダムもなかったであろうといわれる名作に豊田は手を貸している。
豊田さんのアニメ歴を追えば赫々たるものがあるが、実際にお会いすると温和な大学の先生といった雰囲気だった。現在は島根県立大学の教授だからそのままのイメージか。だが口を開くと速射砲のように次々と話しが出てくる。考えていることに口が追いついていけないといわんばかりだ。
たくさん面白いことを伺った。その具体的成果は今度の番組に積み上げることにして、アニメの手法で言及された点をいくつかここにノートしておこう。初期のアニメは技術が弱く、爆発のシーンなどはボンと破裂してもくもく煙が上がるだけで現在のように四散霧消するような精緻なものはできなかった。アニメ化するのに現場が嫌がったものはこの爆発と海岸の場面だ。波が寄せては返すという単調な現象もアニメでは不利だったのだ。単調なものを繰り返し重ねるというのはアニメ表現として適切でなかったのだ。
アニメが実写と違うのは非日常を描くことだ。床が抜けて主人公が落ちるというのは実写でもできる。アニメなら天井に穴が空いてそこへ吸い込まれるという表現にしなくてはならないと豊田は語った。映像の表現ということをいつも気にしている私としてはとても興味深い話だった。
「宇宙戦艦ヤマト」の物語の原型はよく知られた古典からヒントを得たと、豊田さんは悪戯っぽい笑顔で話した。放射能で丸ごと汚染されたことを救うために遠く離れた星にある放射能除去装置をとりにいって帰ってくるまでの苦難の物語――これは、あの「西遊記」をモデルにしていたのだ。でも単純に移し変えたのでなくさまざまなSF知識を注入して換骨奪胎したのだ。登場人物や装置にも工夫がこらされた。例えば、主人公たちが目指すイスカンダルという星の名前の起源を明かしてくれた。アレキサンダー大王のインドでの呼称だそうだ。豊田有恒という人は少年の夢と博学の知を兼ね備えていた。
インタビューを終えて撤収を始めたとき、小学生のお孫さんが下校してきた。すると豊田さんは見る見る優しいおじいさんの表情になった。
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