もうすっかりジジイだ
1994年の初夏、成城の大江さんの家は朝からバッハの受難曲が流れ、大きな暖かい緊張に包まれていた。
最後の小説と自分で宣言していた、「燃えあがる緑の木」の第1稿がまもなく完成しようとしていた。数日来、大江家を撮影していたクルーは固唾を呑んで待機していた。
いつもと同じ時間に大江さんは書斎から降りてきた。これまでにない表情なのでとまどったら、大江さんの顔一面に濃い髭がうっすらと青く生えていたことに気がつく。お洒落な大江さんが初めて見せる顔だった。それほど原稿を書くことだけに専念している様子が見て取れた。
大江さんは疲れてはいるが快活な声で夫人に朝のあいさつをおくる。そして、「やっと書きあげたよ」と報告。それを聞いた夫人は嬉しそうに「おめでとうございます」と答える。「いやあ、これからだよ。まだやることが沢山あるからね」と大江さんは照れる。
「この数日、(夜の執筆作業は)すごかったわよね。原稿用紙をばりっとめくって破る音がすごかった」と仕事に集中していた大江さんを夫人はねぎらった。
あごに手をあてて、さーて髭でも剃らないとと大江さんがつぶやくと、それもいいじゃないというようなことを言ってゆかり夫人が冷やかす。
「そう言ってくれるのは君だけだ。もう、ぼくはすっかりジジイだ」と嬉しそうに大江さんは答えるのだった。
たしか、当時大江さんは59歳。今の私と同じ年齢だ。もうすっかりジジイだと言っていた大江さんはこのすぐ後にノーベル賞を受賞し猛烈に多忙になってゆく。それからの10年の公私の活動は周知だろう。とてもジジイの活動とは思えないものとなる。
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