情とは何だろう
文楽に今どっぷりはまっている。先日行われた「芸の真髄」で竹本住大夫、鶴澤清治の共演をベースにしたドキュメンタリーを現在編集していて、その芝居や文献に耳目を集めているからだ。
住大夫師匠の『文楽の心を語る』をひもとく。文楽の代表的な19演目について、師匠が芸談を語った本だ。これを読むとほとんど無縁であったと思われた文楽が、意外に身近に迫ってくる。
近松門左衛門の「曽根崎心中」。天神森の段、冒頭の語り。
「この世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふれば、
あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそあはれなれ
あれ数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生(こんじょう)の
鐘の響きの聞き納め 寂滅為楽(じゃくめつ いらく)と響くなり」
これは語りの文章だから、黙読するより声に出してみると、その良さが引き立つ。詠んでいてうっとりする。
「この世のなごり、夜もなごり」(この世とお別れだ。夜も今夜限りになった)死出の旅立ちだ。お初・徳兵衛の道行から、相愛の男女が死に場所を求めてさまよう、はかない「死の道行」がクライマックスとなる。
あだしが原とは墓地のこと。そこに通じる道に降った霜、「一足づつに消えて行く」――はかない命、人の世をさりげなく示す。 そこへ鐘がなる。「あれ数ふれば」と続く。
「暁の七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の鐘の響きの聞き納め」
暁の七つの時とは今の午前三時ごろ。7つの鐘のうち6つ鳴って、あと一つなれば二人の死ぬ時となる。やがて、徳兵衛は刃をとってお初の喉元へ・・・。
この二人が心中という手段を選びとらざるをえない事情もまた情だ。何も相愛の感情だけを指すのではない。情とは思いのほか深く広いものだということを、文楽を通じて知った。「情報」という言葉はこのあたりを勘案して成立したのだろうか。住大夫師匠は文楽は情だと幾度も繰り返す。師匠はこんなことを言っている。
「情を伝えようとしたら、声だけでは伝えられません。気持ちを伝えていかなくてはいけません。気持ちを伝えていくためには、やっぱり稽古しかないんです。」
それにしても、この名文句をいい語りと三味線で聴くと、たちまち夢幻の世界に引きこまれてしまう。また国立劇場へ行って聴きたくなった。
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