千代女のためいき
幸田露伴は話し好きだったから、いろいろな人が言行録を書いている。昨夜、高木卓の『露伴の俳話』を読んだ。著者は露伴の甥で、身内を相手に露伴が俳句指導の会を開いたときの言行を聞き書きしたものだ。この本を読んでいて、少年の頃に読んだ偉人伝のエピソードの意味がハタと分かった。
小学5年の頃、日本史が好きで偉人伝をよく読んだ。野口英世伝や樋口一葉伝といった個人の伝記より、数人の偉人のエピソードを収録したアンソロジーが好きだった。
あるアンソロジーに、上杉鷹山や新井白石と並んで加賀の千代女の話があった。千代は加賀松任の在とあったので、父方の親戚がそこに住むこともあって親近を覚え、そのエピソードを貪るように読んだ。
金沢から名古屋のほうへ帰る途中の俳人各務志考が松任に寄ったときのことだ。芭蕉の高弟が来たと聞いて、現地の俳句好きが寄ってきた。その中に千代もいた。千代女の有名な句。
朝顔に釣瓶とられてもらい水
井戸で水を汲もうと思ったら、今朝は朝顔が巻き付いていた。せっかくの風流がもったいないので、朝顔を外して汲むことを諦めて、隣へ行って水をもらった。というような意味だろう。子供の私はなるほどと、この千代女の句に感心した。
偉人伝では、その晩の志考を囲む句会の様子を伝える。兼題にほととぎすが揚げられて、千代も句を次々に作って志考に見せるが、いい点をもらえない。そのうちに夜が更けて志考も眠ってしまった。
夜がしらじらと明けてきた。途方にくれた千代女はつい詠んだ一句。
ほととぎすほととぎすとて明けにけり
それを見て、志考はひどく褒めたというエピソードだ。これが少年の私には意味が分からなかった。最初に揚げた句のほうがうまく出来ているじゃないか。後の句はなにかそのままのことを工夫もなくだらだらと書いただけだろう。と反発した。
『露伴の俳話』を詠んでいたら、この話とまったく同じことが出てくるではないか。
「朝顔に」の句はつくりものだと露伴は指摘するのだ。
《そう、これァつくりものだから、零点でもしかたがない。この句になるほどと感心してはいかん、こういうのは、だます手で、手妻の句だ。技巧でなく、まあ虚偽だ。》
そして、しばらくして露伴は再び千代女に言及する。
《技巧でも妙にこらずにそういえばさっきの千代女の句でもさらりと、
「ほととぎすほととぎすとて明けにけり」
これなんかは千代女が相手にされずほととぎすの句をつくりつづけて夜をあかしたので、はじめていい句になったのだな―》
と、高木は露伴の語ったことを書いていた。
なんだ。あの偉人伝の元ネタはこれだったのか。今なら、「朝顔に」のつくりものより「ほととぎす」の真率さがいいということは分かるが、少年では得心がいかなかったのだ。さらに偉人伝では、ほととぎすの句のよさをしっかり説明していなかったはずだ。
それにしても、この偉人伝の作者はこのエピソードを言いたいために、志考だのほととぎすの兼題だのを自分で勝手に付け加えたのだろう。それじゃ、史実ではなく講談じゃないか。それは露伴が言う技巧でなく虚偽だ。
この技巧と虚偽の話は現代のテレビ事情にもつながるものだと、私は思う。
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