逃避して悪いか
セカンドライフというネットが世界的に流行している。ネットの中にアナザーワールドがあって、べつの人生を作り上げるという「ゲーム」だ。現実で実現できなかったことを、カタチを変えて実現してくれる、ということで人気を集め、依存する人が増えていると聞く。
アメリカのセカンドライフの中に登場する、妙齢の美女。それを操っている人を探したら、ニューヨークの下町に住む50代の冴えないおばさんだったと、テレビが報じていた。みんな現実に目を向けずに逃避していると識者は批判していたが、はたしてそれが悪いのだろうか。
知人の子弟で引きこもっている人がいる。家からほとんどでないで一日中ネットでチャットばかりしている。親はなぜこうなったのかと嘆く。
親の気持ちは分かる。が、その子弟の生き方を通り一遍で否定していいのだろうか。
おそらく、そういう状態になるに至る事情があったはずだ。対人関係だろう。
そこで傷を負い、生身の関係に対して恐怖をもってしまった。そこへ戻るのは辛い。さりとて誰とも関係をもたないのも悲しい。チャットならバーチャルな関係なのでできる。そう考えて、終日、パソコンに向き合うことになった、と推測されるのだ。
ここでネット社会の功罪の是非を論ずるつもりはない。
ただ、われわれの時代はパソコンを持ってしまった。後戻りはできない。これを前提に考えるしかない(70年代なら、こんな発言をすると、「敗北主義」「ナンセンス」と野次られた)
嘆く親の価値観は、学校を出て会社に入り仕事をこなし恋愛をし家庭を作るような人間を基準にしているのだろう。具体的なイメージは民放の夜8時から9時台のドラマに登場するような若者像だ。そこから離れる(落ちこぼれる)者は人生失格と考えているのだろう。
だが、こんなイメージ通りの生き方をしているのって本当にいるのか。そういうふうに見えているのは、その「場」だけのことで、それ以外の局面では、さまざまな顔をもっているのではないのか。われわれが作ったステロタイプに自縄自縛されているのではないか。
話はがらりと変わるが、六十年代にSF小説が登場したとき、旗手の一人である石川喬司は旧来の文学は固定観念に陥っていると見て、人生は幾通りもの可能性に満ちた多元性を表現すべきと主張した。
セカンドライフというゲームもその一つにならないか。
ただし、心の病となればいささか話が違ってくる。これは正確に症状を観察して、その治癒を専門家の手で行う必要がある。この手続きを踏み間違えると取り返しがつかなくなる。だが、最近、専門家といっても頼りない、というか本当に精神医学の最新研究などを勉強しているのかと言いたくなる医者もいる。その実例を私は知っている。
病ではなく、境界にあるわけでなく、やや心が衰弱して引きこもっていたりする人。その人たちが悩み苦しむ。それを和らげることができないものだろうか。
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