幸田文の生き方
深夜3時、映画「流れる」を見て興奮し眠れない。成瀬巳喜男の造形の素晴らしさにも舌を巻くが、原作の幸田文にもっと惹かれる。
一昨日見た、「おとうと」でも、実際のモデルである幸田文の生き方につよい興味を覚えさせられた。が、今夜の「流れる」を見るにおよんで思いはさらに深まった。
十年前、小林勇の「蝸牛庵訪問記」を読んで、露伴とともに娘文に関心をもち、彼女の代表作『崩れ』を早速読んだことがある。そのときは、とりたてて感銘はなかった。というか、幸田文の文章に面白みを感じなかった。それきりとなった。
今夜の映画を見て、無性に幸田文を読みたくなった。書架を調べたら、新潮文庫で『黒い裾』というのが出てきた。すぐに巻頭の「勲章」を読んだ。昭和12年、第1回の文化勲章に幸田露伴が選ばれたときの、文の境遇を描いた作品だ。このとき文は結婚して酒屋の女将を勤めていたのだ。
晩年の文のテレビドキュメンタリーを見たことがあるが、その“ふてぶてしい”風貌に驚いたことがある。この人はお嬢さんでありながら、とてつもなく肝っ玉の坐った人物であったようだ。
「流れる」とは幸田文の自伝的小説だ。四十を過ぎて、文はエッセーを書き始めた。露伴の死後、小説にも手を広げる。ところが、すぐ行き詰まりを感じて、人生を“やり直そう”とする。まったく、これまでと違う体験を自らに課すのだ。それも花柳界という常人には縁遠い世界に飛び込み、芸者置屋の下働きの女中という立場で世の中を見聞しようとした。こうして書かれた小説が「流れる」だ。こんな思い切りのいい生き方なぞ凡人には考えられない。
映画「流れる」に話を戻そう。この映画には、田中絹代、山田五十鈴、杉村春子、高峰秀子と錚々たる名優たちが顔を連ねていて、花街に暮らす芸妓たちの自堕落で打算のからみあう、くろうとの世界を見事に描出している。その中で、栗島すみ子の存在に私は度肝を抜かれた。こんな凄い女優がいたのだと、あらためて邦画のかつての実力を思ったのである。
今、こんな女優がいるかしらん。桃井かおりも大竹しのぶも、栗島すみ子の前に出れば霞んでしまうだろう。と憎まれ口をききたくなるほどの、栗島の実力。彼女の中に、幸田文的女の土生骨を垣間見る。
「勲章」のなかで、幸田文はさすがという表現を用いている。酒屋の問屋で働く男たち(文字に疎く、ひとすじに労働に打ち込む)を指して、「浅しといえど濁らざる」とさらりと記している。この達観、大悟があればこそ、彼女は偏見なく花柳界に飛び込んで行けたのだろう。
映画「流れる」のオープニングとエンディングを同じ大川のリュウリュウたる流れを用いている。小説もすごいが成瀬の「映画」もたいしたもんだ。
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