草臥れて藤の花
今朝のツヴァイク道で、珍しく子どもの姿を見かけた。黄色い帽子をかぶっていたから幼稚園児だろう。母親と弟の3人連れで山道を降りていた。途中、停まって高い木を見上げた。視線の先に藤が咲いていた。薄紫の藤の花房がいくつも垂れていた。きっと、お母さんが教えたのだろう。3人そろって見ていた。
芭蕉のあの句を思い出した。
草臥(くたび)れて宿かる頃や藤の花
春の夕暮れ、歩きつかれて里近くに来て、ふと見上げると夕闇にぽかりと藤の花が浮かんでいるという情景か。美しい景が浮かぶ。句が生まれた場所は、吉野を下りて橿原に向かう辺りと言われている。「笈の小文」の旅の途中である。傍らには愛弟杜国がいた。
これと同じ趣向の句がある。
山路来てなにやらゆかしすみれ草
同じ仕掛けとは言うもの、それぞれいい。この山路は大津の小関越えを指している。
しかし不思議だ。江戸期の俳句に共感しているくせに、現代の若者の心が分かりにくいのだ。ポストモダンの時代とは、「人間」としての共通性を失っているという意味で動物化していると、若い論客東浩紀は語る。
本日、『日本の現代思想・ポストモダンとは何だったのか』(仲正昌樹)を読了した。1ヵ月半かかったが、後半とても面白かった。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング