自動調理装置
スタンリー・キューブリックが「2001年宇宙の旅」(1968)を作ろうと構想したのは1961年ごろだ。SF作家のアーサー・クラークと会ってブレーンストーミングを始めていた。クラークの「前哨」を読んだキューブリックは地球外生命との接触の映画を作りたいと思い始めていたのだ。そのためのデータや専門研究をキューブリックは世界各地から集めた。
当時、80余りの企業、研究施設、学会、政府機関に制作協力をキューブリックは要請している。日本にもその依頼があった。手塚治虫へキューブリックから美術監督になってほしいという手紙が届いた。ということを大伴は手塚から直接聞いている。二人はSF作家クラブの仲間で気があったのだ。
当時、NBCで「アストロボーイ(鉄腕アトムの英語名)」が放送され、アメリカではこのアニメが評判をとっていた。キューブリックもそれを見ていて、美術的アドバイスをこの作者から得たいと思って、作者である手塚に手紙を書いたのだ。
《(キューブリックが製作しようとする映画は)来世紀の月と空間を舞台としたシリアスな、リアルな、サイエンティフィックなSFドラマですが、美術を担当する人がいない。ついてはあなたに美術的な指導をお願いしたいので至急ご返事ください。英語は話せますか?ロンドンに約1年滞在してもらえますか?》
こういう手紙が手塚のもとに舞い込んだのだ。当時、手塚は超多忙の身、おまけに虫プロを始めたばかりで、軌道に乗せるので必死だった。キューブリックのオファーに応じる余裕はなかった。
手塚は返事を書いた。《すばらしい仕事だと思いますが、私には食わさなければならない人間が260人(虫プロの当時の社員数)もいるので、1年も仕事を休むわけにはいかない》と断りを入れたのだ。
これを読んだキューブリックは驚いた。《あなたに260人もの家族がいるとは、アメリカ人にとって驚異です。生活もさぞかし大変でしょう。でも残念です。》
日本人は沢山の妻妾と子どもをかかえていると、キューブリックは想像したようだ。
この後、キューブリックは「2001年宇宙の旅」の制作にあたり、さまざまな未来形の道具を各所から集めた。テレビ電話、自動ペン、人口冬眠カプセル、宇宙時計、自動調理装置、など。
おそらく、この頃であろう。手塚治虫は大伴昌司に一枚の絵を贈っている。題して「自動調理装置」。独身の大伴のことを思って描いたのであろうが、キューブリックの申し出のことが念頭から去らなかったに違いない。それはボタン一つを押すだけで食材が調理されて出てくる装置になっている。当時は夢の装置と思われたのだが、よく見るとそれは現代の電子レンジに似てはいないだろうか。
SFでもよく使われるIFを思う。もし、この映画製作のとき手塚治虫が1年間日本から脱出して参加していたならどうなったであろう。むろん、凝り性のキューブリックだから1年ですむまい。現にこの映画は取り直しが相次ぎ、1965年から3年かけて撮影されたのだが。もし、手塚がこのチームに入って、殺人的なマンガ執筆から離れることができたらもう少し長生きしたかもしれないのではないだろうか。キューブリックのとてつもないエネルギーと合体して、新しい映像文化を生み出したかもしれない。日本映画にも大きな影響を与えたかもしれない。
大伴昌司は「世界SF映画大鑑」のあとがきでこんなことを書いている。
《理想的にはSFは映像として発表されるべきであろう。それをなによりも証明しているものが「2001年宇宙の旅」だが、このような巨大なSF映画を作り出せる映画作家や組織は、日本ではまったく無にひとしい。SFを常識として育った世代のなかから、新しいSFの感覚をもった作家や製作者が生まれることを切望してやまない。》
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