不思議だが、辛いこと
「耳をすませば」をネットで検索したら、自殺という不穏な言葉があった。何だろうと思ってのぞいたら驚いた。あのアニメを見て、自分が思春期にそういう体験をしていないことを儚んで自殺したくなるという言い分が書かれてあった。この項目関連で10万件以上の記事がある。ちょっと見過ごせないくらいの数の人がこの意見に響きあっている。
その中の一つの意見。
《この映画は、何一つ救いがない映画ですよ。実際には、現実には、絶対にありえないことを、思いっきり細部までこだわった現実的な日常の世界として描くなんて、反則以外の何物でもない。
「いいなあこんな学生生活」
「これが本来あるべき学生生活だったんだ」
「すると俺の学生生活ってなんだったんだろう」
そして、見たものの中に、
本来では「ありえなかった現実の世界」が正当化され、
従来の「あたりまえだった現実の世界」が否定される。
本来持っていなかったものをまるで持っていたように錯覚させ、それを否定される。
こんな残酷な作品は無い。
「現実を錯覚させる」ことがそもそもの悪であり、
「現実を否定させる」ことはもっと悪である。
これを作った人は、世の中の人たちにとって、悪である。
映画史上、こんな罪作りな作品は、他に無い。》
なるほど、言い分は分かる。でも、少し僻みすぎてはいないかと思ってしまう。私だって、こんな青春時代を送れたらいいなと思ってはみるが、過去は全然そうにはなっていない。それは恨めしいが、かと言って取り戻せるわけでもないし、まあ「お話」だし、いいかと諦めるのだが、この記事を書いている若者たちはそんなに簡単に気分を“処理”できないのだろう。
そこで唐突だが、「萌え」という現象に思いがゆく。マンガやアニメの登場人物に感情を投影してゆくと「萌える」という状態になるそうだ。この気分が私には分かるようで分からない。たしかに、私の世代でも力石徹が死んだことに対して、葬式を執り行うほど感情移入した現象はあった。だが、現代はこの現象は稀なことではないそうで、さらに過多になっているとか。
この萌えという現象が反転すれば、上記のような嫌悪が生まれるのだろうか。メディアとの交通があまりにナイーブすぎると、私には思えるのだが。
ただ父親としては、こういう意見を記す若者のことがせつない。たしかに、若い日にこういう状況を作りたかったと悔いる人たちの、個別の事情ではそうできないことがあったのかもしれない。話下手だったり、引っ込み思案であったり、太っていたり、背が低かったり、ということで自信がもてず、つい後ろに下がっている間に、いつのまにか青春が終わっていたという人もいるだろう。そういう子を後ろからはらはらして心配しながら見ていた親御さんの気持ちに私は思いいれしてしまう。
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