逆光線で人生を眺める
繰り返し、神谷美恵子の『生きがいについて』を読んでいる。神谷の文章は平易な言葉で書かれてあるが味わい深い。心が屈したときに読むには最適だ。
運命というものについて、神谷が興味深いことを言っている。運命にいいも悪いもあるのに人間というのはいいことは考えず、悪運のみを深刻に受け止めるものらしいと。ギリシァ悲劇にしろシェークスピアにしろ運命は悪いものを背負ってくる。たしかに、よほどのことがないかぎり、人間は運命をよいこととして受け取ることはなく、不運だったこと悲運であったことにこだわってばかりいるようだ。
普通に生きていること――悪い病気にもならず、毎日を親しい者たちのあいだで平和に暮らしている、というようなことは「ふしぎなまわりあわせ」であって好運としかいいようがないのだが、そこに眼がいかない。むしろネガティブな点にばかり心が傾いて行く。
明るい日常生活を送っているときにはなかなか自分が見えない。だからこういう人間のすはだかの部分を知るのに生きがいというものをしっかり確かめるために、逆光線で人生を眺めてみたらどうかと、神谷はすすめる。
例えば死だ。われわれはいつも死の淵にあるのだが、普段は見ようとしない。仮に葬式に行っても自分と関わらないようにしてしか(儀礼的にしか)対応しない。すぐそこにある死から眼をそらすようにして、気をまぎらして生きている。その死を通して、逆光線で人生を見つめなおしたらどうかと神谷は忠告してくれる。
人間が死に直面したときに、その恐怖と別離の悲しさをこえて、その過去のとりかえしのつかなさを、人間は呼び出してくる。そのとき生きがいというものがその人に深い意味として迫ってくるのだ。
《自分の一生が生きがいあるものであったかどうかという問いは、そのとき、多くのひとの心にひらめくであろう。》その後を続ける神谷の言葉に私は打ちのめされる。
《多くの生きがいが死の接近によってうばわれるとしても、残されたわずかな生きる時間のなかで新しい生き方を採用し、過去の生に新しい意味を賦与することさえありうる。》
過去は過ぎ去ったことで変更できないものではないと、彼女は私を励ましてくれるのだ。
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