2つの銃声
忌まわしい事件が、日米で起きた。長崎で市長が狙撃されバージニアで30人の学生が乱射されたのだ。二つの事件を軽々にくくることは許されない。だが、双方に共通するある事柄について取り急ぎ考えておきたい。
この事件がリアルタイムで記録されていたということだ。ビデオテープに収録されていた。
ただし音声であって画像は事件と直接の関わりがない。
話はずれるが、最近「記録」という言葉に抵抗を感じる。この言葉は本来読み書きから発生したであろう。記とは文字をしるす、ということから由来すると思われる。とすると、文字以外で「記録」するビデオのような場合そのまま記録と表すことに居心地の悪さを感じる。
録音、録画という言葉がある。これとて、録音機と無声映画のように機能が別々の場合は有効であったが、画像と音声が合体したビデオレコーディングが出現してくると、録音、録画と併記するのが馴染まなくなっている。仕方がないので“暫定的”に「記録」という言葉が使われているのだが、いまだに記録にとって変わる有効な言葉が生まれていない。
英語で記録するというのは概してレコードを使う。だが、これは音声中心の記録というニュアンスが強い。歴史的に音声レコードが先行してきたからだ。
こういう状況を、新しい言葉でとらえようとするウゴキがないでもない。エクリチュールと言う言葉だ。本来は紙に刻んだもの、記したものという意味であったが、近年は一般に何かに刻んだものという意味に用いられることが出てきた。音のエクリチュールなんていう表現が出て来ている。
とにかく、映像の時代の今、記録という言葉を再考したいと考えている。
銃声の映像(ここでの映像は画像プラス音声という意味)に戻ろう。長崎の映像は市内の午後8時の市内夜景の画面に、町の騒音に混じって「パン、パン」と2発銃声が聞こえる。
バージニアの映像は、事件当時現場付近を漫然と撮っていたものだ。そこに銃声が10発以上聞こえてきて、画面がおおいに揺れる。事件が発生して撮影者が動揺したらしい。
この二つの映像はどういう意味をもつのだろうか――。
長崎では、2発の銃弾が市長の体を射抜く瞬間を記録している。その姿は見えないが音が殺戮の瞬間を表象してくる。画像は事件同時刻の場(天候、環境)を大きくとらえている。
バージニアはさらに生々しい。複数発の銃声の間隔が、事後的に聴く(かつ見る)者に被害者の恐怖の感情をまざまざと表象(represent)してくる。
銃器の発射音をなぜ銃声と言うのか分からないが、この二つの銃声は明らかにノイズではなく音ではなく怒りと恐怖の入り混じった声として聞こえてくるのだ。
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